203
ひと言の礼受けられよ鶯よ 侠心
鶯に、私のお礼の気持ち「有難うございます」をお受けいただきたい。「春告げ鳥」とも呼ばれている鶯の、今年最初の「初音」を聞いて、日本人ならば誰でもそんな気持ちになるだろう。
それにしても、原発近くに住む鶯たちは、放射能から避難しているだろうか?いや、残念ではあるが、どんなに本能に優れた鳥たちでも、過去に経験のないことには、危険を察知する能力を、たぶん持ってはいまい。
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ひと言の礼受けられよ鶯よ 侠心
鶯に、私のお礼の気持ち「有難うございます」をお受けいただきたい。「春告げ鳥」とも呼ばれている鶯の、今年最初の「初音」を聞いて、日本人ならば誰でもそんな気持ちになるだろう。
それにしても、原発近くに住む鶯たちは、放射能から避難しているだろうか?いや、残念ではあるが、どんなに本能に優れた鳥たちでも、過去に経験のないことには、危険を察知する能力を、たぶん持ってはいまい。
202
遺言は書かず終ひや鳥雲に 悦子
遺言なしで財産が沢山あると、骨肉の争いとなる場合がある。そこへ隠し子でも現れたら、もう大騒動。和解もまとまらず、裁判になり十年余もざらという。
そういうことにならないように、あれほど「きちんと遺言書を書くように」頼んだのに、ああ、父はとうとう書かずにあの世へ行ってしまった。大陸へ帰ってゆく鳥たちのように。
「発つ鳥水を濁さず」という諺があるから、きっとこの方は、争いは起こらない、と確信していたのだ、と私は想像する。この句は、2000年の作。
201
原発の望遠映像かげろえる 薪
今月は、東北関東大震災に明け暮れたから、全投句の3分の1が、震災関連だった。この句は、原発が危機的状況に陥るかどうか、という作者の不安、恐怖を象徴している。
さて、人間を含む地球の生命を危険に陥らせているのは、実は産業革命以後の「科学」なのである。鉄道・道路・航空機・船・科学肥料・化学繊維・石油・電気製品、原子力・・・・・切りがないくらい、多くの科学製品に囲まれている。 私達は、明治維新以前の人間生活を真剣に研究しなければならない。それ以外に活路はない。そういう変革期に来ている。 原発に関しては、様々な情報が錯綜しており、発言は控えておく。じっと注視拝聴し、祈る以外手段はあるまい。
200
原発の望遠映像かげろえる 薪
髪の癖直らぬままや古雛
銭湯に十二単衣のおひなさま 炎火
奥州に関八州に春の雨
ひと言の礼受けられよ鶯よ 侠心
煤けたる座敷照らせる雛かな
青き踏む二人で一本缶コーヒー 洋子
おしゃべりと聞き上手いて蓬摘む
河津桜向かいの岸に夫の影 章子
箱を出て古き雛のまぶしめり
春の嶺畳々として横たわる 豊春
啖呵切る男の眸春の山
春の雪連山街に迫りくる 鼓夢
薄暗き部屋に朱飛ぶつるし雛
孤独と自由授かりて春寒し 遊石
春寒に折り合いをつけ生きて行く
よく喋る娘になれり牡丹の芽 雲水
誰一人帰って来ない雛祭
199
朧月窯出し壺が音を生む
焼き物に掛けたうわぐすり(釉薬、釉ともいう)、又は自然に掛かったうわぐすり(自然釉、自然降灰釉ともいう)は、土(粘土、素地、胎土ともいう)との収縮率の差によって、ひび(罅、貫入ともいう)が入る。
作品の温度が下がるにつれて、貫入が入るのだが、その時にチンチンという音を発する。釉薬が厚いと大きな貫入が、薄いと細かい貫入が入る。
MOA美術館に、宋代の青磁壺がある。ガラスケース越しによく見ると、黒く汚れた貫入と、汚れていない貫入がある。汚れていない貫入は、美術館に所蔵されてから生まれたものに違いない。
つまり貫入は、一度に入るのではなく、時間を掛けて少しづつ入るからだ。時間経過と共に次第に少なくはなるが、千年近く経っても未だに壺の貫入は、入り続けている。
198
窯の火を覗く春泥払いつつ
穴窯の窯焚きには、沢山の手伝いがやってくる。自分の作品があるわけでもないのに、窯焚きを連絡しないと怒る人さえいる。それほど窯焚きが好きなのだから、実に有難い。
食事担当や、早朝、昼間、夕方、深夜担当の窯焚きと人によって色々だ。古い人は、15年以上やっているから、安心して任せられる。
とはいっても、仮眠して窯場に戻れば、気になるのは窯の中。温度を確認し、色見穴から中を覗く。1,200度に達すると、降りかかった灰が融けて輝いてくるのが分かる。1,300度になると、灰は土を溶かしながら流れ始める。そろそろ、火止めが近い。
噴き出る汗が湯気立ち
投げ入れる薪は一瞬にして炎となる
窯中の壺たちは透き通って
炎と共にゆらめく
火を崇め火に祈る
獣たちが怖れるように
「焼き物は、人生最後の趣味」と言われているそうだ。誰がいつ言い出したのか、定かではないが・・・・これにも集める趣味と作る趣味があるらしい。
陶芸教室の看板を揚げているわけではないが、「どうしても作陶したい」と頼まれることがある。ある時その男は、徳利とぐい呑みを作りたいと言う。よほどの酒好きなのだろう。
手ロクロは使うが、手びねりだから、いびつもいいところ。しかし、本人は、唯無心に必死にやっているだけなのだが、いつの間にか、いびつがいびつのまま,様になっている。これが芸の極致なのだ。
最後にその男が言った。「今日ほど、こんなに頭が真っ白になったことはない。楽しかった」
「良かったですね」と言ってみたものの、私は、これは喜ぶべきことか、悲しむべきことか、考え込んでしまった。
句会では、提出する俳句の難しい字にはルビをふってもいいのだが、何処までルビをふるべきか、の判断がなかなか難しい。
その時のこの句の、「隻脚」にはルビがなかった。これは、「せっきゃく」と読み、「片足」の意味だ。では、何故「片足」と書かないのか。わざわざ難しい字を使うのか。
初心の頃は、そのことにある種反感を感じたものだ。しかし、そのお陰で字や意味を知ることができるのだから、有難いことなのだ、と次第に思うようになった。
知らない字、感謝感謝で、辞書を引く。
ところで、私は未だに隻脚の鳩を見たことがない。
これは、掛川へ吟行に行った時の句である。
一時、山内一豊の居城であった「掛川城」は、当時の姿を純木造で復現している。城としては小振りであるが、逆川の深い堀を巡らし、天守閣から遠州平野を一望できる平城である。
鯱(シャチホコ)は、名古屋城の金の鯱が有名であるが、頭が虎、体が魚の想像上の動物。掛川城の鯱は、小さな城にしては大きすぎて、バランスが良くない。
その彼方の鯱に鳩が止まった。やわらかな日差しの中の大きな鯱と小さな鳩、城の白壁を象徴して「風光る」を取り合わせ、吟行句として秀句
。
中国唐代の代表的な詩人、孟浩然の「春眠暁を覚えず」から、「春眠」と共通の「朝寝」は、春の季語となった。
中国の文人の書物から、季語になったものは、他にも多々ある。
さて、年を重ねると、次第に朝寝が難しくなるが、目覚めていても起きずにだらだらと布団にくるまっていると、そこに猫が乗っている。
早く起きろと催促しているのかもしれないし、餌をねだっているのかもしれない。いずれにしても、その重さを楽しんでいるのだから、そうは大きくないだろう。子猫かもしれない。犬でもチワワなどなら、可能だろうか。
ところで、我が家の犬、デンは20キロもあるから、とても重くて楽しめない。有難いことに、デンもべたべたするのが嫌いな方で、決してベッドに近寄って来ない。
西行は、
「願はくは花の下にて春死なんその如月の望月のころ」
という歌を残している。「花」は桜のこと。「望月」は満月のこと。
そして、この歌の通り、元冶元年(1190年)、2月16日に入寂した。そこで、「西行は、お釈迦さまと同じ日、2月15日に死ぬように計画して、食を断って望みを叶えた」という推論が生まれたのである。
当時としては高齢の73歳であれば、ありそうな話ではある。西行の歌や生き様が、芭蕉など後世の人々に与えた影響は甚大。
800年前と今と何が違うか、その第一は科学技術である。そろそろ私達は、科学は止めて、江戸時代あたりの良いところを、暮しに取り入れる方法を研究した方が良いのではないか?
今日は、旧暦の如月の十六夜ではあるが、実際は今日が、1日遅れの満月である。
さて、この句の上5の「外(と)にも出(で)よ」であるが、「外」を「と」と読ませ、「に」ではなく「にも」としている。これによって「出よ」という命令形の強さを和らげている。つまり、「外に出なさい」ではなく、「ちょっとちょっと、来てごらん」という柔らかなニュアンスに変わっているのである。
「作者が女性」という私の先入観があるのかもしれないが、子供や夫に優しく呼びかけているように感じられる。「触るるばかりに」も適切。この句は、中村汀女の句である。
蛇足であるが、日本の小学生の4割が、「月が満ち欠けすること」を知らないという。
本日、ようやく鶯が鳴く。かなりしっかりした鳴き方だったので、もう少し前から鳴いていたのかもしれない。例年から比べると、大分遅い。
今日は、旧暦の2月15日。お釈迦様の亡くなった日、涅槃会(ねはんえ)でもあり、この春二度目の十五夜、満月である。
菜の花の正式名は、アブラナ(油菜)。ナタネ(菜種)とも呼ばれる。現在は、日本アブラナより、西洋アブラナが主流だそうである。
アブラナの種の比重の四割が油として精製される。いわゆる菜種油である。ハゼの実から採れる蝋は、1000キロに対して1キロしか採れないそうだから、アブラナの高効率がよく分かる。
現在「菜の花」は、広義にアブラナ科の花の総称としても使われている。
さて、この句、地球に咲く菜の花を真ん中に置き、太陽と月という天体を左右に取り合わせて雄大である。この太陽系を俯瞰すると、月、地球、太陽が一本の直線上に並んでいるのだ。厳密に言うと、月と太陽は線の上、地球は線の下なのだが・・・
今日は東京時間で、月の出17時26分、日の入り17時51分だから、菜の花があればこの句の状況とぴったりである。
この句は、言わずとも知れた与謝蕪村の名句。
漁港の網干場に猫がいる。その猫の額に春の蝿が止まっている。唯それだけのことだ。猫は老いて眠っているのだろうし、蝿はまだ生まれたばかりなのだ。
老いた猫と幼い蝿との労わり合いがなんとも微笑ましい。周りには漁を終えた漁船がかすかに揺れ、漁師が網を繕い、穏やかな日差しが降りそそぎ、波の音も聞こえてくる春の一日である。
作者にとって、見慣れた故郷の一景であれば、こういう無理のない自然な句ができるのも肯けるというものだ。