ペシミズム(悲観主義)orニヒリズム(虚無主義)・・・・たぶん同じようなものだ。大いなる悲観主義は、大いなる楽観主義(オプティミズム)に通じる。
つまり、煩悩が108もある、と信じることは、大いなるペシミズムであろう。除夜の鐘を108撞いて、その煩悩を無くすと信じることは、大いなるオプティミズムであろう。
いづれにしても、どこの誰が考えたか知らんが、実に馬鹿げた作り話だ・・・・・つまりやっぱり・・・ペシミズム・・・・か?
ジュン
ペシミズム(悲観主義)orニヒリズム(虚無主義)・・・・たぶん同じようなものだ。大いなる悲観主義は、大いなる楽観主義(オプティミズム)に通じる。
つまり、煩悩が108もある、と信じることは、大いなるペシミズムであろう。除夜の鐘を108撞いて、その煩悩を無くすと信じることは、大いなるオプティミズムであろう。
いづれにしても、どこの誰が考えたか知らんが、実に馬鹿げた作り話だ・・・・・つまりやっぱり・・・ペシミズム・・・・か?
ジュン
同じ月を見ている(谷山浩子 作詞作曲) ←クリックすると聞くことができます
どこか 知らない町
知らないアパートの部屋
眠れずに月を見ている
誰か 名前も知らない人
ひとり 髪を洗う
ひとり 机に向かう
別に 淋しくはない
唯胸さわぐ 今夜はなぜか
今夜 同じ月を
違う場所で見てる
たぶん一度も 会うことのない
あなたと私
伝えたい 元気でいると
伝えたい 元気でいてと
心が 静かに溶けて
今 流れ出す あなたへの歌
(間奏)
世界に 数えきれない
ひとりが 今日も生きてる
泣きながら 笑いながら
迷い うつむき 戸惑いながら
今夜 同じ月を
違う場所で 見てる
ひとりひとりの ひとりの想い
夜は抱きしめる
伝えたい 元気でいると
伝えたい 元気でいてと
心が 静かに溶けて
今 流れ出す あなたへの歌
生きている それだけでいい
生きている それが奇跡と
思える時が来るまで
今 この歌は あなたへの歌
この歌は あなたへの歌
14才の我が家のモモ。まだまだ元気に走り回っているが、最近失禁するようになった。どうやら避妊手術が原因のようである。怒るわけにもいかず、ベッドに「おしっこシート」を敷いたり、晴天の日には洗って天日に干すようにしている。
先日も一週間ほど失禁が続いたが、今は治まっている。何故治まっているのか、理由は全く分からない。
モモ
今年の岩戸句会の会員には、病人や怪我人が多かった。幸いにも全員快癒したので、忘年句会では、お祝いの報告があった。
クモ膜下出血だったが、手術が成功し入院、多少の不自由はあるもののリハビリによって、全快に近いAさん。肺気腫で入院したBさん。なんと今再び平然と煙草を吸っています。膝を痛めたCさん。元気にテニスをしています。草刈り機で足を切り、手術で回復したDさん。足の中に金属棒が入っているようですが、全快しています。不幸中の幸い、でしょうか。
兎にも角にも無事帰還、おめでとうございます。
風の音窓打つ雨も師走かな 稱子
年用意母真似ていて母遠し
包丁の其の先ほどの寒さかな 遊石
その人は一つの咳の様に消えた
黄落のじゅうたんめくる竹ぼうき 洋子
窯出しや上がる歓声朴落葉
世に飽いてゐる寒月を愛でてゐる 章子
マフラーの中よりひそと君を呼ぶ
ハイヒールのつんつん歩く紙マスク 薪
秋鯖の刺青の胴押してみる
万物に隙ありにけり虎落笛 炎火
山枯るる観音堂の露かな
虎落笛揺れし立木の長き影 鼓夢
野ざらしの寄生木痩せて冬の天
病得て空白のまま古暦 豊春
大根抜く妻の背中を夕日影
さし伸べる掌に冬虫のあとずさり 正太
風呂吹や友は昔の恋がたき
癩の惨秘めて静まる冬木立 侠心
古暦捨てて来福希わんか
アイビーに紅葉銀杏が舞い落ちる 空白
ホームレスは見て見ぬふりの廃棄物
初雪や窯の余熱はこころにも 雲水
古暦今日も予定がない私
ハイヒールを履くのは、背を高く見せるというよりも、日本人の場合、六等身をせいぜい七等身に見せたいためだろうか。ハイヒールを履いているだけで、私はその女性を好きになれない。
「分かっちゃいるけど止められない、かっぱえびせん、ハイヒール」その健気な思いは想像できるが、そんなものを履き続けると、将来必ず外反母趾になり、痛い思いをする羽目になることが、眼に見えているのだ。
さて、この句の面白いのは、ハイヒールと紙マスクの取り合わせだろう。そのミスマッチが面白い。それが、つんつん歩いているんだから、尚更である。
この句を、全て漢字にすると、「黄落の絨緞捲る竹箒」となる。視覚的に全然感じが違うのが良く分かるだろう。
銀杏などの黄葉する木々の落葉が、絨緞のように敷き詰められているのは美しいものだが、箒で掃くとなると結構大変だ。実際毎日やっているからこそ「めくる」という言葉が出て来たのであろう。
特に、雨が降ってしまうと、地面に張り付くから、尚更「捲る」が相応しくなる。更に落葉が多くなると、竹箒では間に合わず、熊手の出番となる。つまり、落葉掃きではなく、落葉掻きとなる。
ロウバイ(蝋梅、蠟梅、臘梅、唐梅)ロウバイ科ロウバイ属 の落葉低木
包丁の切っ先にある、などという寒さは存在しない。しかし、例えば柳刃包丁などを喉元に突き付けられた時の、暴力団的人相や態度の凄み、殺されるかもしれない鳥肌の立つ恐怖感を寒さと言っているのかもしれない。
作者には、きっとあったのだろうそんな恐怖体験が、残念ながら私にはない。いや、ない方が幸せな人生には違いないが、こういう俳句を作ることができた貴重な作者の体験を、私が羨ましく思うのは自然で、当然のことでもある。
まあ、世の中には気弱な方で、柳刃包丁を見ただけで鳥肌が立つ人がいるのかもしれないが・・・・
師匠でさえ走らねばならない、という忙しい師走であるが、作者は、窓を打つ強い風雨に師走を感じ取ったようである。
作者は、年末を意外とのんびり暮らしているのではあるまいか、これが私の第一勘。それとも、忙しいのに用事ができず、苛立っているのだろうか。それとも束の間の静かな時間、忙中の閑を楽しんでいるのだろうか。
この他にも、男女や年齢,職業などによって、様々な解釈ができるだろう。だからこそこの句に、読後の余韻と奥深さが感じられるのである。
サザンカ(山茶花) ツバキ科の常緑広葉樹
800 仇討に拍手喝采年の暮
(あだうちに はくしゅかっさい としのくれ)
元禄14年3月14日、江戸城、松乃大廊下にて、赤穂藩主・浅野内匠頭長矩が高家旗本・吉良上野介義央に、刃傷(にんじょう)に及んだ。
殿中での刃傷に対して、征夷大将軍・徳川綱吉は激怒し、浅野長矩は即日切腹、赤穂浅野家は断絶と決まった。それに対して、吉良義央には何の咎めもなかった。喧嘩両成敗とはならなかったのである。
元禄15年12月14日、赤穂藩筆頭家老・大石内蔵助義雄は、赤穂浪士(四十七志)と共に、本所松坂の吉良邸を襲い、吉良上野介義央の首を上げたが、四十七志は全員切腹となって決着した。
この一連の事件を「元禄赤穂事件」と言うそうだが、その後、歌舞伎や人形浄瑠璃(文楽)の演目『仮名手本忠臣蔵』として上演され、今日まで日本人の「仇討」礼賛へと発展してゆく。
現在、映画、テレビでこの忠臣蔵は大人気であるが、私はその人気の所以がどうも理解できない。何故なら、刃傷に及べば、お家断絶によって親族、家臣が路頭に迷うのは分かっていたはずで、それを無視して行動した浅野内匠頭長矩は、どうしょうもない馬鹿殿だったのである。
そんな馬鹿殿に忠義を守り、死を覚悟しての仇討に及ぶことは、私には理解できない。更に、そういう映画やドラマが、現代人に人気があることも理解できない。
(かんりんを はいくろうにん はいかいす)
俳句の「俳」とは、①芸人、②おどけ、たわむれ。徘徊の「徘」とは、さまよう。
浪人(「牢人」とも書く)とは、①古代、本籍地を離れ、他国を流浪している者。浮浪人。②中世・近世、主家を自ら去ったり、あるいは失ったりした武士。江戸時代には幕府の大名取りつぶし政策などにより著しく増加し、政治・社会問題となった。浪士。③入学試験や入社試験に不合格となり、入学や就職ができないでいる人。また、職を失って、きまった職のない人。
さて、造語の「俳句浪人」とは、日々の生活の中で、仕事もなく、俳句作り以外に束縛される用事もない、完全な自由人のことであろう。
彼、又は彼女は、ダウンジャケットに身を包み、1眼レフや双眼鏡、スマートフォンを持ち、悠然と寒林を闊歩しているに違いない。
アロエ(蘭)はアロエ科アロエ属の多肉植物の総称
師走の骨董市と言えば、12月15,16日の世田谷の「ボロ市」を思い出す。世田谷ボロ市は、天正6年(1578年)に小田原城主北条氏政がこの地に楽市を開いたのが始まりで、世田谷を代表する伝統行事として、400年以上の歴史を有している。
最初は古着や古道具などを持ち寄ったことから「ボロ市」という名前がついたとされているが、現在では骨董品、日用雑貨、古本や中古ゲームソフトを売る露天もあり、代官屋敷のあるボロ市通りを中心に、約700の露天が所狭しと並び、毎年多くの人々で賑う。
師走と言えば、忙しい素振りするのが普通だが、作者は閑で退屈している。師が走るどころか、ボロ市をあてもなくうろうろ歩いているのである。
(やまあいの SLにのる ゆきばんば)
「雪女」は、雪娘、雪女子、雪女郎、雪姉さ、つらら女などとも呼ばれ、若く美しい妖怪で、全国の雪の降る地域に説話として伝承されている。
「雪婆」(ゆきばんば)は、雪女郎や雪女の年寄り版の妖怪。又、綿虫、ゆきんこ、雪虫、しろばんば、などと虫の名としても呼ばれている、「トドノネオオワタムシ」が飛び始めると、初雪が降り、雪女や雪婆が現れるのだそうである。
一方「雪男」は、UFOと同様存在すると信じられているが、人里離れた山奥に住む、全身毛むくじゃら、直立二足歩行するという未確認動物のこと。
従って、「雪婆」には、妖怪と綿虫の2種類ある。とすると、この句の場合「雪婆は綿虫」、と考えるのが自然だろう。妖怪やまさか、自分のことを雪婆に例えているのではあるまい、とは思うが・・・・・・
クマザサ(熊笹) イネ科ササ属
(あかなまこ つまるところは たいかろん)
進化論と言えばダーウィンを思い出すが、古代ギリシャや古代ローマ時代にも、既に進化論はあったようである。種は環境順応によって変化する。生存競争、自然淘汰、突然変異、環境、遺伝、DNA,など様々な要素によって、生命体は変化する。
それを「進化」と言っていいかどうか、大いに疑問である。進化の最先端にいるはずの人類は、「退化」しているのではないか。「老化」と言っていいかもしれない。いづれにしても、進化と退化が表裏一体であることは、間違いなさそうである。
(はるかなる ものにすばるよ としおしむ)
地球が太陽の周りを一周する間に、見える角度の差を天体観測、太陽と地球の距離を基にした「三角測量」この手法で計測して、地球から最も遠い星は、オリオン座の近くの「S269」で、その距離は、1万7250光年だそうである。
ちなみに昴は、400光年だそうである。「S269」は、昴より43倍も遠いけれど、私から見れば同じように遠くに思える。
宇宙誕生から今日までを1,000mとすると、私達のような新人と言われる人類が誕生したのは、999,9986m、誕生後わずか1,4mmしかないそうである。
初氷