二千年に亘り、今でも作り続けられている仏像。印度から中国・朝鮮を経て仏教と共に伝来した仏像彫刻とその技術。
モッコウバラ(木香薔薇)には、黄木香と白木香がある。黄木香は、秋篠宮家・眞子内親王のお印だそうである。このモッコウバラと石仏との取り合わせがうまい。
しかし、この世のどんなものも諸行無常であるから、「滴りて石に還りし仏かな 執」という句が成立する。
シロヤマブキ(白山吹) バラ科シロヤマブキ属の落葉 低木
二千年に亘り、今でも作り続けられている仏像。印度から中国・朝鮮を経て仏教と共に伝来した仏像彫刻とその技術。
モッコウバラ(木香薔薇)には、黄木香と白木香がある。黄木香は、秋篠宮家・眞子内親王のお印だそうである。このモッコウバラと石仏との取り合わせがうまい。
しかし、この世のどんなものも諸行無常であるから、「滴りて石に還りし仏かな 執」という句が成立する。
シロヤマブキ(白山吹) バラ科シロヤマブキ属の落葉 低木
ぶらんこを危ないほど力一杯漕いだ経験は、誰にでもあるだろう。又例えば、ぶらんこに乗る子供を力一杯押してあげた経験も、たぶん誰にでもあるだろう。
作者は、そんな危ないほど漕いでいる子供たちを眺めながら、かつて自分にもそんな経験があったことを懐古している。しかし、それも遠い昔のこと。
今若者たちは、例えばジェットコースターに熱狂している。あんな人工的な馬鹿げた遊びに、高いお金を払って良く乗るものだ、と思う。しかし、良く考えてみればジェットコースターの原点は、確かにぶらんこかもしれない。自動、他動の違いはあるが、ぶらんこのスリリングは、ジェットコースターのスリリングへ進化していて、飽きられることはなさそうだ。バンジージャンプなども同類であろう。
ラベンダー シソ科の常緑樹
鞦韆(しゅうせん)ぶらんこ、ふらここ、は、公園など一年中どこにでもあるが、春の季語である。季節感が薄い季語の代表格かもしれない。
さて、この句の作者の哀しみが、どのようなものなのか、想像する術はない。しかし、一般論として、多くの他者である人々に思いを馳せれば、このぶらんこに乗って涙を流した多くの人々がいた歴史は、間違いなくあるに違いない。
更にそれを世界中のぶらんこにまで想像が及べば、その人々の数は計り知れない。
イカリソウ(碇草、錨草 ) メギ科 イカリソウ属 の落葉多年草。
最近では、かなり減った団体のバス旅行。特に会社の慰安旅行が減って、熱海など温泉地の旅館やホテルは大打撃だ。それでも今年のゴールデンウィークでは、230万人(日本人5人に一人)が一泊以上の旅行に出かけ、その内の56万人(4人に一人)が海外組。
さて、この句のバスは、もしかすると長距離の高速深夜バスかもしれない。3列でゆったりと座れ、電車や飛行機よりも料金が安いらしい。但し、昨年の4月29日、関越自動車道で高速バスの運転手の居眠りで7人死亡の大事故があったから、実家に帰るのも命がけの覚悟がいるかもしれない。
この作者も、心配でおちおち眠っておられない心配性らしい。「全くこの人、鼻ちょうちん膨らませて、良く寝ていられるわねえ」などと呟きながら、みんなの寝顔を呆れて眺めているのかもしれない。
ヤブレガサ(破れ傘) キク科ヤブレガサ属の多年草。
私のブログのノビル(野蒜)の写真を見たテニスの友人から、「ノビルを教えて欲しい」と頼まれた。早速、テニスコート近くの蜜柑畑を散策すると、細ネギと見間違うほどの立派なノビルがあるわあるわ。開墾してあって、雑草がほとんどなく、引き抜けば切れることなく、すぽすぽと抜けるのだ。地主さんに気兼ねしながらも、結構採りました。
洗って生のまま、玉の部分は小さいから、いくらでも食べられる。味噌を付ければ、酒の肴にもってこいだ。
ワラビ(蕨) コバノイシカグマ科シダ属
えーっ、こんなことありか。市場を経て購入したのならいるわけないし、農家の人が直接搬入したとしても青蛙に気付かぬはずはないし、田んぼの真ん中にスーパーがあるわけないし、・・・・・、
青蛙の主食は、レタスなどの植物ではなく、青虫などの虫類だから・・・・・いづれにしても、作者も驚いただろうが、読んだ私も驚いた。
梱包されたサニーレタスの入った段ボール箱に紛れ込んだのだろうか。開けてびっくり、驚いたのは青蛙だったりして・・・・・
葱坊主
「暑さ寒さも彼岸まで」と言うけれど、4月半ばでも結構寒いこの2,3日だった。暖房を第一のおもてなしとして、ほとんど毎日薪ストーブを焚いているが、薪を入れ忘れて一旦火が消えてしまうと、最初から付け直さねばならず、これが結構面倒なのだ。
又、日中の気温が20度近くなると、さすがに部屋が暑く感じるので、薪ストーブは、急に消すわけにもいかず、窓を開けて調整するしかない。
ヤマブキソウ(山吹草) ケシ科クサノオウ属の多年草。
クサヤマブキとも
(とおスカイ ツリーへなへな かげろえる)
東京タワーからスカイツリーへ、地デジ放送の電波発信を変えるらしく、試験電波が送られている。100km先のスカイツリーが、双眼鏡で見えるのだから間違いなく届いているようだ。
アナログから地デジへ、ある日突然国から予告されて、国民のほとんどが素直にテレビを買い替えた。そんな勝手が許されるのなら、もう一つやって欲しいことがある。
都会の高速道路を全て地下化して、排気ガスを出さず、火事になりにくい電気自動車だけが走れるようにするのだ。東京から高速道路がなくなったら、どれだけ景観と空気と、何と言っても安全性が良くなることか。
サンショウ(山椒) ミカン科サンショウ属の落葉低木。
二羽のヒヨドリが、空中で追いかけっこ。そのうち絡み合って屋根の上に落ち、更に地面に落ちた。その途端、一羽が一羽を追って飛び去った。
「卑しい鳥」と書くヒヨドリのことだ。強引なオスの態度が気に入らず、必死に抵抗しているメス、と勝手に解釈しておこう。気に入らなければ、恋猫だって同じように抵抗するんだから、そう間違ってはいないだろう。
シラユキゲシ(白雪芥子) ケシ科シラユキゲシ属
(つむじある こうしのひたい かぜひかる)
旋毛には、右巻(63%)、左巻(31%)があり、旋毛のない人や複数ある人もいるらしい。変わり者、ひねくれ者など性格の悪いのを「つむじ曲り」と言う。
さて、季語の「風光る」であるが、ある解説によると、
うららかな春の日に、やわらかな風が吹きわたる、その明るさをいう。春になると、陽の光も強くなり、吹く風にゆらぐ風景もまばゆく明かるい。いきいきと輝く自然の陽光と風の様相は、新しい春の息吹を感じさせる響きがあり、生々の気に満ちている。それが「風が光る」である。
この30年、なんとなく受け入れて来た季語「風光る」であるが、いざ考察してみるとこの季語の曖昧さに戸惑う始末だ。私は単純に、「森の木々の若葉が、春風にゆらめき、陽光に輝いている様」と考えていたが、そんなに具体的なことではないようだ。私のつむじが曲っていたのかもしれない。
クサイチゴ(草苺) バラ科キイチゴ属の落葉小低木
論語に「七十にして、心の欲する所に従えども、矩(のり)を踰えず(こえず)」とあるが、この句の作者、益々人々に逆らっているらしい。しかし、世の中にはおかしな考えや行動をする人も多いから、異論を述べる必要も生じるだろう。孔子さまの申すようには、なかなか生きられない。
草団子は、和菓子の一種で、白玉粉を練って蒸し、蓬(よもぎ)の若葉を茹でて擂り潰したものを混ぜた団子。
ところで話は変わるが、私の良く通る道路に、一軒の御屋敷がある。その家の門に「巧言令色 入門不許」と書いてあり、いつも通るたびに気にかかっている。
「相手に気に入られようと、言葉が巧みで、顔色を繕うような人は、この門入るべからず」という意味なのだろう。論語の「巧言令色 鮮(すくなし)仁」から採っていることは明らか。「セールスマンお断り」よりは、おしゃれかもしれない。
しかし問題は、この文面を読んで、「私は巧言令色ではないから入ることができる」と思う人はたぶん怪しい人間である。セールスマンは、無視するであろう。動物や文面を理解できない者も入るであろう。
つまり、まともに読んで正しく理解した人だけが、入門しないだろう。
ハコベ(繁縷、蘩蔞)ナデシコ科ハコベ属の総称のこと
単にハコベ というときは、ハコベ属の1種であるコハコベのことを指す場合が多いそうです
確かに、子供の頃の「かくれんぼ」は、本気も本気、必死に見つからないようにやるのが普通。今思えば「缶蹴り」などもそうだが、運動が苦手な子が鬼を何度もやったりして、損な立場に立たされていたのではないだろうか。そういう子は、かなり悔しい思いをしていたのではなかったか。今頃反省しても手遅れではあるが・・・・
しかしそれも遠い昔の話で、今はお孫さんとわざと見つかるように・・・・・ですか。菜の花がいいシチュエーションですね。ついでに芒の原っぱも想像しました。又関係ないかもしれませんが、ついでに「サトウキビ畑」←(クリックして下さい)も思い出してしまいました。
(マラソンの すぎゆくどてに よもぎつむ)
ボストンマラソンで、あってはならない爆発事件が起こった。平和の祭典が一瞬にして恐怖の場へと変わったわけだ。犯人は単なる社会への不満分子かもしれないし、アルカイダのような政治的な反米テロかもしれない。
いづれにしても、アメリカが、例えばベトナムで100万人、イラク・アフガンで22万人という大量の殺戮を行ったことは事実だから、世界中の人々に相当の怒りと憎しみを与えたことは間違いない。
彼らに、正当な大義名分などあるはずはないが、一体いつまでこんな殺戮を繰り返すのだろう。これでは、世界中のマラソン大会が中止になるかもしれない。
この句のような平和な光景が、有難く尊く思えて来る。
ノビル(野蒜) ネギ属の多年草
(しゅんそうの かげのみそいて ふれあわず)
1 知り合って月日の浅い二人。女は、既に心を許し始めていて、手も握らないことに淋しさを感じている。
2 長年連れ添った二人。今では手さえ握ることなく、歩く二人の影だけが触れ合っている。淋しいと言えば少し淋しいが、世の中そんなもの。
3 春は出会いの季節。親しくなれるには、まだまだ月日がかかりそう・・・。いわば、水くさい仲。(作者の弁)だそうである。句は面白いが、この解説は淋しい。
4、愛し合っている二人は街を歩いている。暖かな今日、女は春の装いを凝らしているから、すれ違う人たちの目線を感じている。ほんの少しだけ男と離れていたい気分、せめて今だけ。
山笑う
世の中には、「犬派」と「猫派」がある。というのは、たぶん10数年以上前のことだが、テレビ(たぶんNHK)で犬猫論争番組があり、ある青年が犬養道子さんに「あなたは犬養(いぬかい)なのに何故猫派なんだ」という無意味な反論に大爆笑が起こったのを思い出したからだ。だから猫が犬ふぐりを踏んづけている掲句は、猫派にとっては拍手喝采だろう。
しかし、私は犬派である。猫に踏まれることは慙愧に耐えない。せめて、犬に踏ませたいと思って「踏みつけて犬通りけり犬ふぐり」という句を作った。句の善し悪しは別として、これは2匹の犬を飼っている男の、真白な事実の句ではある。