シリーズ「津軽一代様」巡り。
最終回の「戌・亥」の一代様は「弘前八幡宮」です。
弘前市の田町方面から訪れると、八幡町の突き当たりに八幡宮はあるのだが、境内より300m以上手前に一の鳥居がある。
ここは交通量も多い道路だが、以前は参道だったらしく、ここら一帯が境内だったのだなと推測される。
二の鳥居を潜り、境内に入る。
右手が社務所になっており、左手が田代大神、高山開運稲荷神社、神楽殿や末社が幾つかある。
正面には拝殿があり、奥に唐門と本殿があります。
まずは弘前八幡宮の歴史から。
平安初期、坂上田村麻呂が蝦夷征伐で苦戦を続けた時、八幡村(現在の旧岩木町八幡)に小祠を建て、宇佐八幡宮を遥拝し武運を祈願したことに始まる。
慶長十七年(1612年)、津軽二代藩主信牧が弘前城を築くに際し、城の鬼門(東北方)を守護するため、それまで百年余大浦城の守護神として崇敬されてきた八幡宮の御神体を八幡村から弘前のこの地に奉遷した。
明治の神仏分離令により、境内参道の別当寺院は移転する。
雪が積っててちゃんと見れなかったが、本殿、唐門は桃山時代の様式で代表的な神社建築として、現在は重要文化財建造物に指定されている。
戌・亥の一代様であるが、これといって戌と亥の石像などシンボル的なものはない。
ま、強引に言えば、狛犬がありますが・・・。
とはいえ、ここの唐門前に座る狛犬は珍しいものであるようだ。
ここ弘前八幡宮、すぐ近くの「熊野奥照神社」、そして子の一代様「多賀神社」には市指定有形文化財の石造狛犬が各一対ずつある。
これら三体は石質、大きさ、形状共に酷似し、「寛文四年」作とある。
六基の狛犬の原材料の石材は津軽地方では取れない。
越前・越後方面より完成品として北前船によって海上輸送されて来たものであろうとの推測が強い。
戌・亥の守り本尊は「八幡大菩薩」である。
神道の八幡神と仏教の菩薩は完全に神仏混合と神である。
ここで少し「八幡大菩薩」の歴史を。
天応元年(781年)、朝廷は宇佐八幡(現在の大分県の八幡宮の総本宮)に鎮護国家・仏教守護の神として八幡大菩薩の神号を贈る。
これにより全国の寺の鎮守神として八幡神が勧請されるようになり、八幡神が全国に広まることとなった。
後に阿弥陀如来が八幡神の本地仏とされた。
平安時代以降、武士の尊崇をあつめて全国に八幡神社が勧請される。
明治元年(1868年)、神仏分離令によって、全国の八幡宮は神社へと改組されたのに伴って、神宮寺は廃され、本地仏や僧形八幡神の像は撤去された。
また仏教的神号の八幡大菩薩は明治政府によって禁止された。
八幡宮は全国の神社で一番多い。
鶴岡八幡宮が源氏の守護神とされているように、八幡神は武運の神として崇められて、全国に分祀されていったのである。
正月にここの前を通ったが、境内から溢れるほどの参拝客の行列が出来ていた。
ここら一帯はすぐ近くの「熊野奥照神社」以外は目立った神社や寺院がないのもあるし、古くからの八幡信仰も強いのか、多くの初詣客や参拝客が訪れる。
ここに訪れた時も少ない数ではあったが参拝客がいて、お守りを購入する人が多いのには驚いた。
古くから地元の神として愛されているのだろうと感じた。
というわけで、シリーズでお送りしてきた「津軽一代様巡り」は無事終了~!
それにしても誰が一代様の神社や寺院を制定したのかは謎であった・・・。
ま、自分としては津軽の歴史を含め、神道と仏教を勉強出来て何よりであった。
最後に一つ、これを言っちゃ元も子もない気がするが、決してこの決められた8ヶ所(最勝院を含め9ヶ所)にお参りする必要はないと思う。
それぞれの守り本尊が祀ってある神社や寺院が近くにあれば、そこに行けばいいのである。
一番大事なのは、参拝する心構えや信仰心であるから。
住所・弘前市八幡町1-1-1
電話・0172-32-8719
最終回の「戌・亥」の一代様は「弘前八幡宮」です。
弘前市の田町方面から訪れると、八幡町の突き当たりに八幡宮はあるのだが、境内より300m以上手前に一の鳥居がある。
ここは交通量も多い道路だが、以前は参道だったらしく、ここら一帯が境内だったのだなと推測される。
二の鳥居を潜り、境内に入る。
右手が社務所になっており、左手が田代大神、高山開運稲荷神社、神楽殿や末社が幾つかある。
正面には拝殿があり、奥に唐門と本殿があります。
まずは弘前八幡宮の歴史から。
平安初期、坂上田村麻呂が蝦夷征伐で苦戦を続けた時、八幡村(現在の旧岩木町八幡)に小祠を建て、宇佐八幡宮を遥拝し武運を祈願したことに始まる。
慶長十七年(1612年)、津軽二代藩主信牧が弘前城を築くに際し、城の鬼門(東北方)を守護するため、それまで百年余大浦城の守護神として崇敬されてきた八幡宮の御神体を八幡村から弘前のこの地に奉遷した。
明治の神仏分離令により、境内参道の別当寺院は移転する。
雪が積っててちゃんと見れなかったが、本殿、唐門は桃山時代の様式で代表的な神社建築として、現在は重要文化財建造物に指定されている。
戌・亥の一代様であるが、これといって戌と亥の石像などシンボル的なものはない。
ま、強引に言えば、狛犬がありますが・・・。
とはいえ、ここの唐門前に座る狛犬は珍しいものであるようだ。
ここ弘前八幡宮、すぐ近くの「熊野奥照神社」、そして子の一代様「多賀神社」には市指定有形文化財の石造狛犬が各一対ずつある。
これら三体は石質、大きさ、形状共に酷似し、「寛文四年」作とある。
六基の狛犬の原材料の石材は津軽地方では取れない。
越前・越後方面より完成品として北前船によって海上輸送されて来たものであろうとの推測が強い。
戌・亥の守り本尊は「八幡大菩薩」である。
神道の八幡神と仏教の菩薩は完全に神仏混合と神である。
ここで少し「八幡大菩薩」の歴史を。
天応元年(781年)、朝廷は宇佐八幡(現在の大分県の八幡宮の総本宮)に鎮護国家・仏教守護の神として八幡大菩薩の神号を贈る。
これにより全国の寺の鎮守神として八幡神が勧請されるようになり、八幡神が全国に広まることとなった。
後に阿弥陀如来が八幡神の本地仏とされた。
平安時代以降、武士の尊崇をあつめて全国に八幡神社が勧請される。
明治元年(1868年)、神仏分離令によって、全国の八幡宮は神社へと改組されたのに伴って、神宮寺は廃され、本地仏や僧形八幡神の像は撤去された。
また仏教的神号の八幡大菩薩は明治政府によって禁止された。
八幡宮は全国の神社で一番多い。
鶴岡八幡宮が源氏の守護神とされているように、八幡神は武運の神として崇められて、全国に分祀されていったのである。
正月にここの前を通ったが、境内から溢れるほどの参拝客の行列が出来ていた。
ここら一帯はすぐ近くの「熊野奥照神社」以外は目立った神社や寺院がないのもあるし、古くからの八幡信仰も強いのか、多くの初詣客や参拝客が訪れる。
ここに訪れた時も少ない数ではあったが参拝客がいて、お守りを購入する人が多いのには驚いた。
古くから地元の神として愛されているのだろうと感じた。
というわけで、シリーズでお送りしてきた「津軽一代様巡り」は無事終了~!
それにしても誰が一代様の神社や寺院を制定したのかは謎であった・・・。
ま、自分としては津軽の歴史を含め、神道と仏教を勉強出来て何よりであった。
最後に一つ、これを言っちゃ元も子もない気がするが、決してこの決められた8ヶ所(最勝院を含め9ヶ所)にお参りする必要はないと思う。
それぞれの守り本尊が祀ってある神社や寺院が近くにあれば、そこに行けばいいのである。
一番大事なのは、参拝する心構えや信仰心であるから。
住所・弘前市八幡町1-1-1
電話・0172-32-8719
自分はただの兼業農家です。
冬は暇なので、あちこち行ってます。
頑張ってブログ毎日更新してるので、毎日見てください(笑)