友人達からこう言われると、いくら倹約家の私でも彼女達の言葉を拒むことは相当難しくなって来ました。元々友人達に洋梨を勧め始めた張本人は私です。また、私が最初に勧めた食道楽の人も、折に触れて他の下宿人の皆にうんちくしただろう事は予想に難くないのでした。その元々の洋梨購入の発起人はお前だろう、そのお前が実は定価で買ってい無いというじゃないか、という彼女達の苦言なのでした。特売でばかり買って八百屋さんが可愛そうだという心情も込められていたのでしょう、女子大生、皆乙女チックな年頃です。そんな中で仕方なく、到頭ある日の放課後、友人と2人連れだって八百屋さんに寄った私は、日頃旨としている信条に反して定価でこの果物を買う事にしたのでした。
買うと決めて財布を開いて、私は小銭入れを覗くと(百何十円かの買い物です、紙幣を使う事も無いのです)中のコインを確かめました。私はこの時、お金の少額単位である小銭を見て、自分ながらに胸に何か思う所はありました。百何十円です、所謂はした金ですよね。そんな金額をケチってまで節約している我が身が世知辛い気分でした。…
ここでハタっと私にある場面が思い浮びました。或いは若しかしたらですが、最初に定価で買ったその日には、私はお金の持ち合わせが無く、小銭がその日の梨の定価分も無く、お札を入れる場所に千円札は無く、その日の朝、入金の補充をしたばかりの高額な万札1枚だけがその紙幣の場所に収まっていた様です。札入れに覗くお札に掛けた自分の指、紙幣の種類の金額の大きさにドキッとした場面が浮かびます。
私に取って学生に万札は相当似つかわしくありませんでした。特に普段極貧娘の私にはそうです。少なくともこの時の私は相当体裁の悪い思いを感じたと思います。それは、常時特売娘の私に似つかわしくない、嫌味にも思えるその時の財布の中身を、丁度この時補充した節目だったというばかりに、その様な大金を持っているのに今まで定価で買った事が無いのだと、八百屋のおばさんにケチを超えて底意地悪くさえ思われるのではないかというきまりの悪さでした。別の日なら晴れ晴れと、私は何思う事無くスムーズに定価で買う事が出来てよかったのにと、この日この時、洋梨を定価で買おうとした事をこの時の私は後悔していました。