母の出奔先はと言うと、今回は直ぐに実家という訳にも行かなかったようだ。我が家へ戻って来たのも思ったより遅く、家から姿を消して4、5日経ってからの事だった。「日数が経つとそれだけ敷居が高くなるから。」お定まりの文句と共に母方の伯父に連れられて一旦母は戻って来た。母の身の寄せ所から母の実家に連絡が行ったようだった。伯父は「てっきり妹は婚家のこの家に帰っているとばかり思っていました。」と玄関で切り出すと、それでこんなに連れて来るのが遅くなり申し訳ない事です。と先ず詫びていた。
母の実家は母の父が早くに亡くなっていたので、家の男手の代表として伯父が付き添って来ていたのだ。それに合わせて、家に居る筈のこちら側の祖父も奥に引っ込み表に出てこなかった。母と伯父、父とこちらの祖母の間で始まった話し合いは手短で、私が大人の話が始まったと思ったらすぐにお開きとなった。
その内容はというと、離婚する場合、子供は母に付いた物で私は母の元に引き取られる。という事や、そうでなく母がこちらに残る場合、母にとって何らかの優遇措置を計って欲しいのだ。という物だった。これらを伯父は表明し頼み込んで行った。この申し出の後、母は家には残らず、付き添って来た伯父と共に再び母の里に帰って行った。別れ際、既に商売を切り盛りして長い、一家の大黒柱である伯父は案外と余裕で、私ににこやかに微笑んで頭など摩り愛想を言ってくれたが、母はやや青ざめて緊張した面持ちであり、私から終始視線を逸らしていた。
「大丈夫かしら?。」
母が不安そうに伯父に呟いていた。伯父はそんな自分の妹に、「大丈夫、大丈夫。これで上手く行くから。」世の中はそういう物さ。と小声で応対していた。
「さ、早く帰ろう。」
伯父は不安そうな母の背中を押し、玄関の扉へと向かうと、「では、お邪魔しました。」と家の奥に一声掛けて、さっさと私の母である妹を先に外へ出し、2人で外へ出て行った。家からは祖父はもとより、父も祖母も誰も玄関に送って出てこなかった。私は1人で2人を見送り、その儘玄関の戸が開いている様を眺めていた。私の心にもぽっかりと扉が開いているようだと感じていた。
「智ちゃんごめんね。」
と、不意に玄関戸口にやつれた母が立ち私に言葉を掛けた。私はいなくなったと思っていた母が再び私の目の前に現れた事や、今日それ迄私に一向に見向きもしなかった彼女が、この時しをらしく私を見詰めている姿に面食らった。何だか私の方が彼女を可哀そうだと思った。
「お母さん、気にしなくていいよ。」
「お父さんと元気でいるからね。私の事を気にしなくていいよ。お母さんの嫌な家に、そんな、無理して帰って来なくていいよ。」
私はそう言って母の事を労ったつもりでいた。
この一瞬、玄関先の母は目を吊り上げ、その目には憎悪が燃え上がった。私の目には彼女の体が暗い煤けた塵芥の様な物に包み込まれたように感じた。この時の私には、つい先程迄悲しみに打ちひしがれていた彼女が、何故そのように憤り、恰も憎しみの権化の如くに変化したのか全く理解できなかった。