この様に母の顔色が冴えない日が2、3日続いた。私はこの事を特に気に病む事無く過ごしていた。そしてこの間、真実は白日の下に晒されたのだという、公明正大で朗らかな気分の儘でいた。
そんな私がその日外遊びから家に帰ると、またもや障子の前で待ち構えていたらしい父に捉まった
「やはりこの障子に穴を開けたのはお前だ。」
父がそう言うので、私はうんざり顔をした。
「そう言う事にしておこう。」
以下、父は言うのだ。
そうしないとあれは出て行くというのだ。折角この家に嫁に来たのに、実家に帰ってもどうしようもないだろうに。あれだってあれの家族だって困るだけなのは目に見えている。それに私はあれの事を頼まれたのだ。向こうの母さんや兄さんに。
父はそう言うと、私に
「なっ、この穴はお前が開けたんだよな。」
と再び言った。父は少々懇願めいた口調になっていた。しかし私は相変わらず無言で首を横に振り、事実は違うという意思表示をした。そんな私に父はううむと唸った。
父は言を左右に振りだした。この穴を見てみろ、こう上手く障子の様な紙に、この様に丸く穴を開けられるものでは無い。この丸は真円とかいう物だそうだ、正円とか。なぁ、なかなか上手く丸く穿かれているだろう。こんな柔らかな紙にこうも綺麗に丸い形だ。おいそれとは誰にだってこうは出来ない物だ。さっき別の障子紙でしてみたが、私でもこうは奇麗な穴を開けられ無かった。感心したよ。等と父はこの目の前にある障子の穴を持て囃し始めた。
「どうだ、お前も1つお母さんに見習って、こういう綺麗な穴をここに空けてみないか。」
1つと言わず2つでもいいぞ。にこやかにこう父が言うので、私は黙って父の顔を見つめて首を横に振った。嫌な感じがした。
そこで私は、かつての父の言葉を復唱して父に聞かせると、お父さんは私にそう言っていたじゃないかと文句を言った。それなのに、どうして今になって悪い事を自分に勧めるのかと父を詰った。
「それはそれ、あの時はそれでよいと思っていたんだが、」
と、父は言うと、「あれが、自分に似ていない子のいる家にはいたくないというのだ。」「このままではあれは帰ってしまう。そうなるとあれだけでなくお前にとっても良くない事になるんだ。」「お父さんには分かる。」そんな事を言い出した。父の目は空を泳ぎ上の空の体であったが、その後何やら妙案を思い付いたと不思議な顔付になった。
「まぁ、いいから、お前自分の指を嘗めてみろ。」
と父は言い出した。人差し指でいいからと父が言うので、私は言われるままに人差し指を嘗めた。すると父はその指を出して見せてみろと言う。私が自分の人差し指を口から出して父に見せると、父はこれでは足りないなと渋い顔をした。もう一度べろべろに指を嘗めて、いいからその儘父に指を見せてみろと言う。私は何思う所無く言われるままに唾液でべとべとにした人差し指を父に見せた。何時もならみっともない、行儀が悪いと父が言う、指を嘗め、人前に晒す行為だ。私は妙な気がしたが、父の言う事だからと素直に従った。
すると、父は有無を言わせぬ勢いで私の人差指を手首ごと彼の手に掴むと、それっとばかりに障子の紙に持って行きぷすりとその場に突き刺した。あっという間もあればこそである。私は自分の指の刺さった障子に強い衝撃を受けた。衝撃の後、恐る恐る襖から指を抜き出すと、そこには小さな穴が開いていた。夢なら良かったのに、私は思ったが、現実には、私の目の前の襖の障子に私の指が開けた他の穴よりひと際小さな穴が確かに開いていた。私の心は一気に真っ暗な奈落の底に突き落とされた様で、ぶすぶすとした煤けた闇に覆われた心地がした。
「さぁ、これで良し。」
父は言った。「よくやった、これでお前も我が家の一員だ。」「父と母と子の3人家族だ。」等と労ったが、私は何もしていないのだ。障子に行ったのは父なのだ。私の手を掴み開けたのだ、この穴を。しかも私に勝手に開けたのだ。私は思った。
この事が父の言動の矛盾を感じさせて、私は母だけでなく父さえもおかしな人物なのだと気が滅入った。
『こんな人達と家族だなんて…。』
私は項垂れて、酷く沈み込むと父と話等したく無かった。父は盛んにこれで良いのだと口走っていたが、私の方は気分の晴れようがなかった。