「あなたに迷惑しています。」
その男の人は、私が驚くような一言を言った。『私が?』、『何故この見知らぬ男の人に迷惑をかけているのか。』、この時の私には容易に想像もつかなかった。
「私や私の家族も迷惑しています。私達の事を世間に言いふらさないで貰いたい。」
?である。私が知りもしない人と、その家族の事等、尚更に私は知り得ない無いのだから話し様が無かった。
「知らない人の事は話さないし、話せない。」
そうでしょうと、私は逆にその男の人に問い掛け同意を求めた。私の切り返しに男の人はやや沈黙した。
少々間が有ったが男の人は言った。
「だが、あちらこちら尋ねあぐねてみると、この話を知っているのはこの家の人間しかいないのだ。この家ではあなたしか話の出所が無いのだ。」
そんな長い事を言う。私は途中から彼の話が分からなくなって消化不良気味になった。頭が混乱していた。もしかするとこの男の人は外国人なのでは無いか?私はこう考えた。が、所々はやはり日本語が入っていたなと彼の話を思い返すと、日本語の話の中に外国の言葉が入っているのだろうか?等、はてさてと考えたりもした。何にしろ、返す返すも全くと言ってよい程理解出来無い話だった、と私は思った。私にはこの男性が訪問してきた目的が分からないし、何故私に用が有るのかも全然理解出来なかった。
『私に用がある。』
さっき確かそう言われたなぁと思う。この人が言った「あなた」は私だと思う。それは確からしい。そう考えながら、次にあれこれと私自身と「話」という物について考えてみた。
私が思い着く「話」は、御近所さんに私が話すこの家の家族の事だ。又は反対に、外で見聞して来た事を家の家族に話す事だ。このおじさんは見るからに私の家族に含まれない訳だから、外で見聞して来た話だろうか?しかし、家族に話したとは言わなかった。世間の人にと言われた。と、そんな事をあれこれと、私が黙ったまま考えていると、
「それごらん、後ろ暗い所が有るんだろう。」
おじさんはきっとした目を光らせてにやりとした。我が意を得たりと言う感じだったのだろう。
私の方は、行き成り見知らぬ人から覚えもない出来事を追及され、如何やら咎められているらしいという事態に気付くと、その理不尽さにムッとしてくるのだった。それでもこの人は家の仕事のお客様らしい。家の仕事関係の人なら失礼な物言いや態度をしてはいけない。普段父から仕事の邪魔にならないよう、お客様には何でも言ったりしてはいけない、お客様を見たら口を閉じて静かに大人しくしている様にと言い遣っていた。私は言いたい事も言わずにもごもごと言葉を抑えるのに腐心した。
「白状しなさい。犯人はお前だな。」
男の人に、こう迄あからさまに言われると感情の波を抑えていた私も堰が切れた。目の前のこの人は如何にも嫌な人だ。私はむっとしてそっぽを向いた。そして彼に向き直るときっ!として彼の目を見上げた。
「おじさんね、…」
言い掛けた私の言葉に、彼はそれを遮るように45度くるっと自分の身を回すと障子戸の方へ向きを変えた。そして私の事は全く無視して
「ここをご覧。昔はここにこんな穴は無かった。」
これは皆お前が開けたというでは無いか。何て行事の悪い子だ。こんな手癖の悪い事をして、末は牢屋か監獄か、外道の道に落ちるという物だ。ましてや、お前はしばしば嘘を吐いているそうでは無いか。等と淀み無く喋り出した。
「嘘つきは泥棒の始まりだ。」
「成程それで手癖が悪いのだ。」
いけ無いなぁ。と断定的に言うと、彼は今度は私に向き直り、自分の顔を私の顔に向けた。そして油断なく私の目の前に自分の顔をぐいぐいと寄せて来ると、眼鏡越しに私の目を睨み、「お前さんは本当に悪い子だね。」と、駄目を押した。
私は訳が分からなくても、これだけ大の大人の男性に遣り込められれば、自分がとてつも無く酷い窮状に落ち込んでいると悟らざるおえなかった。ううっと半泣きでべそを搔いた。私の空っぽになった頭の中には彼に言うべき釈明の言葉が一つも思いつかなかった。すると、
「泣いているのか、悪いと思ったら謝りなさい。」
彼は言った。
そうすれば勘弁しない事も無い。何故こんな事をしたのか、それ相応の理由があるなら聞いてやろう。理由の如何によっては情状酌量してやらない事も無い。云々。彼は流暢に言葉を繋いで行く。しみじみとして静かな物言いだった。
いうだけ言うと、目の前の男の人は言葉を切って私をきつく見詰めた。私は如何しようも無い所まで追いつめられた獲物のようだった。おじさんは獲物を狩る狩人の様な厳しい目付きで私を見詰めていたのだ。が、私が自己弁護の余地もない緊迫した状態に追い込まれ、項垂れてしょんぼりとその場に佇んでいると、漸く彼の気持ちにも余裕が出来た様だった。不思議な静けさと沈黙の内にも、この場に緩和した空気が漂い出したように私は感じた。
程無く、
「幾つだったかね?、まぁ、あなたも未だ幼い子供の身だ。」
と穏やかな口調になった彼は言った。
私がその言葉の穏やかさにおずおずと彼を見上げると、眼鏡の奥の瞳は穏やかで、少々悪戯っぽく笑っていた。私は渋い顔をした。『冗談だったのかな?』
大人は時として酷くまじめな顔をして幾つもの難しい言葉を並べ立てると、子供の身の私達を揶揄うという事実を私はこれ迄数回の場面で体験していた。そう思うと内心ホッとして私の気持ちも緩んで来た。この人もそういう類の大人らしい、そう判断すると、私は、この人は私の嫌いなタイプの大人の男の人だ、と思った。私には、こういう大人の人は小さくて弱い物を苛める事が好きな人なのだ、としか思えなかったのだ。質の悪い、その人こそが悪人だと私は感じた。