Jun日記(さと さとみの世界)

趣味の日記&作品のブログ

うの華 131

2020-01-02 11:09:48 | 日記

 大丈夫、大丈夫、…。

励ます妻に彼は頷き幾許かの言葉を返した。それでもしんみりとした雰囲気は拭えず、彼の首は垂れた儘だった。彼は手を上げ頬を数回拭う仕草を繰り返していたが、その内ちらりとこちらにいた私に視線を投げて寄越した。その後も私がずーっと彼を見続けていたせいだろう、店主は全くこちらに黒い後頭部を向けた儘になってしまった。彼は私のいる場所とは反対方向、店の向こう側のガラス戸の方向へと自分の面を向けてしまったので、そんな彼に、私は向こうの窓外の風景を彼が眺めているのだろうと思った。

 店主の見ているらしい同じ窓外を見やると、散歩するのにはそれなりに晴れた天気だと私は思った。その日は明るい曇天の日だった。向こうの窓外上方の彼方には、水色をした青い空も覗いて見えていた。私は椅子の上にいるのが退屈になって来た。そろそろこのお店をお暇して、自分が元していた逍遥に戻りたいと思い始めた。

 「やっぱり私が話しましょう。」

この店の奥さんがそう言うのが聞こえて来た。何だか煮え切らない彼女の夫に、妻は意を決したようだ。いいですねと店主に声を掛けると、彼女は私の方へ歩み出し、戻り始めた。その彼女の顔はと私が見詰めてみると、緊張した面持ちの中に悲壮感が滲み出ているような瞳をしていた。そんな彼女に

「今日は止しだ。」

ご主人から声が掛かった。奥さんの方は、え、いいんですか?、と驚き、次いでやや拍子向けした雰囲気になった。が、彼女は確認の為か夫に念を押した。早い方が良いのではないか、向こうさんも急ぎなのでは無いか、等言葉を掛けた。それに対して、いやいいんだ、そう急ぐことも無いだろう、そうご主人が答えるので、奥さん方もそうですか、あなたがそう仰るのならと、今回は商談とやらを諦めた様子で、物静かに彼女は私の傍に戻って来た。

 「今日はこれでね、今度また。」

そう言うと、彼女は私が椅子から降りるのを手伝ってくれたのだった。私はじゃあねと彼女に挨拶すると、おじさん、元気を出してねと店主に声を掛け、その後は入ってきた扉から外に出ると嬉しそうに元の屋外の散策へと戻って行った。


うの華 130

2020-01-02 10:44:59 | 日記

 「ちょっと頼まれた事があって。」

伝えて欲しいと言われていてね。そこまで言って、彼は唇を震わせた。どうやらそれ以上言葉が出なくなったようだ。

    店主はその儘、暗い顔付きでおどおどと間を置いていたが、到頭言葉を続ける事が出来ずに終わった。彼は静かに私に背を向け、また元居た場所に戻り始めた。戻る途中に妻が立っていたので、お前に任せるよ、と彼は彼女に言葉を掛けた。

「昔から知っているから、」

小さい時のあれの顔が目の前にちらついて、あの子の顔をみていると、もういけない。どうにも重なって、似てるんじゃない、子供の顔というものがもういけない。幼い時のあれの顔をどうにも思い出させるんだ。あの子の顔を見ていると、話が出来ない。それらの言葉を途切れ途切れに言うと、その場に置いてあった椅子に彼は腰を掛けた。「昔の事を思い出して、…いけない…。」

 「もうだめだ。」

彼はそう言うとおうおうと声を上げた。それは私にも店主が泣いているのだと分かる様な、そんな見栄も外聞も無い様な慟哭だった。感極まった彼は椅子から立ち上がり、足摺りし、そしてまた腰掛けた。

    そんな主の嘆く様子に、店のあちこちにいた店員達がそれと気付いた様子だ。彼等は代わる代わる店主の傍にやって来ては、彼の身を案じ、言葉を掛け、彼の御機嫌伺をしなければいけなかった。

 私に取ってのこの店主の感受性豊かな様は初めての見聞だったが、彼等が思いの外早々に彼から離れて行く様や、彼の妻に当たる御内儀が、如何にも平然として取乱す気配が無かった事から、この主のこういった状態はそう特別の事でも無いらしかった。

 現に私が主の様子を心配してその様子を注視していると、それを気に留めた彼の妻が振り返って夫を見た。そして、また…、あの人はもうと忙しなさそうに呟くと、彼の元へと進み出した。夫の元に辿り着いた彼女は、大丈夫ですか、他所のお子さんが見ていますよと声を掛けて、亭主の気概を奮い立たせた。