大丈夫、大丈夫、…。
励ます妻に彼は頷き幾許かの言葉を返した。それでもしんみりとした雰囲気は拭えず、彼の首は垂れた儘だった。彼は手を上げ頬を数回拭う仕草を繰り返していたが、その内ちらりとこちらにいた私に視線を投げて寄越した。その後も私がずーっと彼を見続けていたせいだろう、店主は全くこちらに黒い後頭部を向けた儘になってしまった。彼は私のいる場所とは反対方向、店の向こう側のガラス戸の方向へと自分の面を向けてしまったので、そんな彼に、私は向こうの窓外の風景を彼が眺めているのだろうと思った。
店主の見ているらしい同じ窓外を見やると、散歩するのにはそれなりに晴れた天気だと私は思った。その日は明るい曇天の日だった。向こうの窓外上方の彼方には、水色をした青い空も覗いて見えていた。私は椅子の上にいるのが退屈になって来た。そろそろこのお店をお暇して、自分が元していた逍遥に戻りたいと思い始めた。
「やっぱり私が話しましょう。」
この店の奥さんがそう言うのが聞こえて来た。何だか煮え切らない彼女の夫に、妻は意を決したようだ。いいですねと店主に声を掛けると、彼女は私の方へ歩み出し、戻り始めた。その彼女の顔はと私が見詰めてみると、緊張した面持ちの中に悲壮感が滲み出ているような瞳をしていた。そんな彼女に
「今日は止しだ。」
ご主人から声が掛かった。奥さんの方は、え、いいんですか?、と驚き、次いでやや拍子向けした雰囲気になった。が、彼女は確認の為か夫に念を押した。早い方が良いのではないか、向こうさんも急ぎなのでは無いか、等言葉を掛けた。それに対して、いやいいんだ、そう急ぐことも無いだろう、そうご主人が答えるので、奥さん方もそうですか、あなたがそう仰るのならと、今回は商談とやらを諦めた様子で、物静かに彼女は私の傍に戻って来た。
「今日はこれでね、今度また。」
そう言うと、彼女は私が椅子から降りるのを手伝ってくれたのだった。私はじゃあねと彼女に挨拶すると、おじさん、元気を出してねと店主に声を掛け、その後は入ってきた扉から外に出ると嬉しそうに元の屋外の散策へと戻って行った。