「昼寝は子供のお仕事だものね。」
母は笑顔だが、声音はこう皮肉っぽく言った。
私には母の言葉もこの物の言い様も合点が行かなかった。何しろ、寝込んだ記憶が全く無かったのだ。私がいくら自分の記憶を探ってみても、つい今し方迄昼寝をしていたという事実に思い当たれなかった。
「私が?、昼寝を?、…」
こんな縁側で?。と不審そうに言葉を並べていると、母は不承不承の顔付きになったが、「お前がそう思うんなら、そうなんだろうさ。」と言って、私達母子の会話を切り上げた。
私は続けて今迄自分が昼寝をしていたかどうかを考えていたが、この縁側の床に転がっていた事や、母の後ろ姿が間近にあり、衣類や母の背が自分の目に大きく映っていた記憶が有る事等頭に浮かんで来るのだが、それが自分の昼寝と如何にも結びつかないでいた。
「変だなぁ…。」
私は呟いた。昼寝なら昼寝で、寝付く迄や、寝ていてから起きた時の記憶が有る筈なのに。私には自分が昼寝をしていたという確かな記憶がさっぱりないのだ。自分ながらにこの事が不思議で仕様が無い私は、変だなぁと呟いて首を捻るばかりだった。
そんな私の傍らで、母は溜息を吐くと、お前まだ寝ぼけているんじゃないかい等、言うと、仕事の手を休めて嫌そうな視線を私に向けた。
「私は今日中にここを仕上げるよう言われているから、お前の相手は出来ないからね。」
と、前もって駄目を入れた。
私にしても特に母に相手をして貰う気等全く無かったが、ふと母の抱っこしてあげるという言葉を思い出した。すると内心ふふふと、忙しそうな母を構いたくなる邪気が起きた。
「お母さん、さっき言った事は?。」
「さっき?。」
「確か抱っこしてくれると言ったでしょう。」
と如何にも幼げに私は言った。母は向こうを向いてほら来たと零した。
「私は、先に言ったね。」
私に向き直った母はこう言うと、お前より先に、忙しいと言っただろう。こうなると思って言っておいたんだよと、この仕事もお前のせいで増えたんだろうとぶつぶつ零し出した。母の不平が始ると、障子の向こう側からエヘンと咳がした。如何やら祖父のようだ。男性の声らしかった。母は言葉を止めて顔を障子の方へ向けた。その儘暫し障子の向こうを窺っていたが、私の方を向いた時の母の顔には笑顔が浮かんでいた。そして優しく私に語り掛けて来た。
母は手に持った糠袋の説明をした。そうして見ていてごらんと、「ほらね、こうやって拭くと、」と、床をすいっと拭いて実演してみせた。ね、綺麗になっただろうと言う。
その時母の拭いた個所は丁度私が今朝手に怪我をした場所だった。例の板に出来たささくれが有る個所だ。私がそのささくれに気付くのと、母が再び糠袋を滑らせその上を通り過ぎる事が重なった。お陰でささくれが元あった場所に押し込まれ、綺麗に均される場面が私によく分かった。なるほど、これで安心だと私も母同様にこやかに笑みを浮かべて母の顔を見詰めた。
『床も綺麗になるものだなぁ。』
パズルの組み合わせがきちんと合ったような爽快感を私は覚えた。
「如何だい。」
母は得意げに言うと、私に向けていた彼女の顔を私とは反対側の障子に向けて逸らした。そして顔を逸らした儘、糠袋をすいっと元来た方向へと戻した。すると、如何いう訳か床のささくれが糠袋の通過と共に起き上がって又元の様にささくれ立った。私はその尖った危険な棘達に目を丸くして驚いた。元の木阿弥である。母の苦労も水の泡、無駄になるというものだ。こうなると糠袋の効力も何もあった物では無い。
母は再び私の方へ視線を向けると、にこにこしてまた同じ個所に糠袋を滑らせた。ささくれはまた横に均された。美しい床面だ。そして糠袋が再び戻されると、ささくれはその袋と共に再度置き上がった。これを再度目撃した私は、自分の髪の毛や背中の毛がささくれ同様に総毛立つ思いがした。気分的にもささくれ立った。
『これだもの。』
この人は何をやっても、こんななのだからと思った。溜息だった。