今迄、自分がこれだあれだと言われて来た事が、そうなのだと見てきた事さえも、ある日突然、思いがけず変化して来た私なのだ。この頃の私にとっては、それは僅かに数回の事だったが、それでも、物事、特に人の言う事はころころ変わる事が有る。一定していないのだと分かって来ていた。
『人の言葉は信じられないものらしい。』
そう思うと、その事に明らかに私は失望していた。特に、この時期接点が多い家族からの言動でこういった衝撃を受けると、私の失望感はより大きくなった。私は自分は何を如何したらよいのか混乱してしまい、その混乱が困惑となって私を襲うと、その無秩序から言い知れぬ程の嫌悪感を感じるのだった。その嫌悪感はある種の焦燥感となって私を襲い、吐き気さえ覚える程に私を圧迫して来るのだ。
『さっきは気付いてよかった。』
私は思った。無秩序の中できちんと基準にできるものが見つかり、私はそれに希望を見出したのだ。それは私の心にパッと輝いた光だった。私はこの世を生きる基準を只1つ、きちんと把握できる自分に置く事で正しく生きていけると思った。人はどうやら信じられないものらしい、この世で何かを信じたいなら、その為には、常に自分という者を信じられるものにしておけば良いのだ。そうすればこの世を真っすぐに歩いて行けるだろう。私は「私」を信じられるものにしておこうとこの時決意した。
ふと気付くと、私は丁度廊下の中間地点に立ち止まっていた。縁側の陽光感じる明るい戸口迄もう少し間があった。一つの問題に結論が出ると、私には新しい疑問が湧いて来た。
『さっきの色は何だったんだろう?。』
私は怪しく思った。今迄終ぞ見た事のない光景だった。そういう状態に陥ったと言った方が良いのだろうが、その様な状態になるという事さえ分からない年代だ。目にした物を現実に見たのだとしか考えなかった。
『確か居間の茶箪笥が斜めに傾き…』
私は振り返って自分の背後を見た。私の目には廊下の先、居間への入り口の開いた障子戸が映るのみだ。その入り口の先に私が今出て来た部屋が広がっているのだ。
私は怪しんだその光景を思い出してみた。家具がすうっと形を崩し、私の左横から後方へと流れ出し、その後赤や緑の明瞭な色がまるで墨流しの断片の様に流れて行ったのだ。その色の向こうには黄色や、光のような眩い筋もあっただろうか。色の後には闇の様な世界が、そこに私は差し掛かり飲み込まれようとしていたのではなかったか。
「あの後、そのままにしておけばどうなっていたのだろう…。」
私は呟いた。その後の私を自分は想像してみようとしたが、何しろ、その経験自体が全く初めての事だ。その先の事等私に分ろう筈がない。想像だに出来ない。でも、流れて行った明るい色合いを思い出すと、この世とは違う明るく楽しい別の世界がその先に待ち受けている様な気もした。私は絵本に出て来るおとぎ話の世界を連想した。緑の野原に赤や色取り取りの花々が咲き、お菓子の家や可愛い服を着た子供達がいるメルヘンの世界だ。
『行けばよかったのかな?。』
私はそこへ行かなくて損をしたのかしら。ふとそんな勿体ない気分にもなった。
…、が、私は思った。やっぱり自分では分からない事だ。ここでそんな自分が分からない事をあれこれと、時間をかけて考えるだけ無駄な事だ。
「時は金なり」父の口にする格言の言葉を思い出した私は、そこで時間が勿体ないと判断した。次に進もうと元の進行方向へ向きを戻した私は、台所へ続く廊下へと歩みを再開した。