今日は五月晴れです。
昨日は祭礼でした。
そのせいではないのですが、このページにアクセスしない内に、2、3日過ごしてしまいました。
やはり、世界的なOSの問題発生があったためです。
不便なものですね。
今朝は良いお天気で、今日からの好天気を予感させる五月晴れの日々の幕開けにふさわしい朝です。
さて、
今日は父の月命日、そして、祖父の命日の日でもあります。
2人共、2日の日に亡くなりました。
気分の良い五月晴れの日に、何故人の亡くなった話をとお思いでしょうね。
(ピンポン!)
「ちょうどインターホンが鳴ったのは、お寺さんが来たからです。
本当は私もお参りすべき仏壇の前にいるべきですが、このまま書き進めます。」
昨年からそれとなく気づいていたのですが、今日改めてこの事実をはっきりと認識した、そんな今朝であったからこの話題になってしまいました。
ぷるるるる!
ここで電話、携帯番号です。
誰でしょうか?ひょっとして息子から?
と、出ると、こちらは石材店さん。
お墓の工事の日取りの話です。
重なるものですね、
命日と、お寺さん訪問と、石材店さんの電話。
先勝ちの日ですか、話題にふさわしい日になっているのかもしれません。
先に逝った祖父の導きで、父が逝ったのかもしれない日と書こうと思っていました。
お墓もまた、先に逝った人々が祭ってある所、墓標、標識と思うと、何かしらこの地域の祭りの次の日、今日の話題にあっていたのかもしれません。
祭りの次の日は、特に朝は物寂しく清々しい、そんな若葉の季節であるのかもしれません。
次の世代に引き継がれていく、若い芽の薫風の季節の始まり。
父とのことは、1年過ぎた今になると夢の世界のように感じます。祖父母とのことになると、夢のまた夢、そんな気がしていた今朝です。
お前ももう来たら、そんな風に言われた気がした朝。
ここで、お茶だけでも出そうかと出ていったところ、仏間はもぬけの殻、電気だけが厳かに点いていました。
こんなものですね、私がいなくても事足りるという具合です。
さて、
不思議なものです。
昔の話ですが、祖父は宗教や仏にあまり興味がない人でした。
祖父母はよくお寺へ説教を聞きに行っていましたが、主に祖母の意向だったようです。
なぜなら、私は説教通いに行く祖父の方にこう言ったことがあるからです。
「お祖父ちゃんも、お祖母ちゃんも、お寺や仏さまが好きなんだね、良く説教を聞きに行くもの。」と
その時祖父は私にこう言いました
「お祖父ちゃんはそう好きというか、…こういう事に興味はないけど、お祖母ちゃんが好きだから」と、
この会話を覚えているので、祖父が宗教に対してあまり興味がなかったのだと私は思っているのです。
反対に、父は若い頃からよく寺へ行き、お経を読み、読経を日課とした程に宗教が大好きな人でした。
愛用の数珠と経本があり、経本は年代を経てばさばさ、いかにも使い込まれたものとなっていました。
この経本で墓前の経を唱えていた姿が恒例でした、これもまた夢の世界のような一コマです。
こうやって思いやってみると、親と子というのは反対のものなのかもしれません。
熱心な信者と、特に宗教には興味のない信者。祖父は現実的な人であったのかもしれません。
とはいえ、時に仏像など買ってきたくらいですから、そこそこに信仰心はあったのかもしれません。
「あの子に買ってきた仏像なのに」
「返してきたがや」
祖父のこの言葉を追い出すと、買ってきた仏像も祖父の信仰からというより、家族への思いやりから、今目の前に現実にいる者達への配慮から、そうなのかもしれません。
やはり祖父は現実的な人であった、なかなかの人物であったのでしょう。
父の前の祖先。
昨日は祭礼でした。
そのせいではないのですが、このページにアクセスしない内に、2、3日過ごしてしまいました。
やはり、世界的なOSの問題発生があったためです。
不便なものですね。
今朝は良いお天気で、今日からの好天気を予感させる五月晴れの日々の幕開けにふさわしい朝です。
さて、
今日は父の月命日、そして、祖父の命日の日でもあります。
2人共、2日の日に亡くなりました。
気分の良い五月晴れの日に、何故人の亡くなった話をとお思いでしょうね。
(ピンポン!)
「ちょうどインターホンが鳴ったのは、お寺さんが来たからです。
本当は私もお参りすべき仏壇の前にいるべきですが、このまま書き進めます。」
昨年からそれとなく気づいていたのですが、今日改めてこの事実をはっきりと認識した、そんな今朝であったからこの話題になってしまいました。
ぷるるるる!
ここで電話、携帯番号です。
誰でしょうか?ひょっとして息子から?
と、出ると、こちらは石材店さん。
お墓の工事の日取りの話です。
重なるものですね、
命日と、お寺さん訪問と、石材店さんの電話。
先勝ちの日ですか、話題にふさわしい日になっているのかもしれません。
先に逝った祖父の導きで、父が逝ったのかもしれない日と書こうと思っていました。
お墓もまた、先に逝った人々が祭ってある所、墓標、標識と思うと、何かしらこの地域の祭りの次の日、今日の話題にあっていたのかもしれません。
祭りの次の日は、特に朝は物寂しく清々しい、そんな若葉の季節であるのかもしれません。
次の世代に引き継がれていく、若い芽の薫風の季節の始まり。
父とのことは、1年過ぎた今になると夢の世界のように感じます。祖父母とのことになると、夢のまた夢、そんな気がしていた今朝です。
お前ももう来たら、そんな風に言われた気がした朝。
ここで、お茶だけでも出そうかと出ていったところ、仏間はもぬけの殻、電気だけが厳かに点いていました。
こんなものですね、私がいなくても事足りるという具合です。
さて、
不思議なものです。
昔の話ですが、祖父は宗教や仏にあまり興味がない人でした。
祖父母はよくお寺へ説教を聞きに行っていましたが、主に祖母の意向だったようです。
なぜなら、私は説教通いに行く祖父の方にこう言ったことがあるからです。
「お祖父ちゃんも、お祖母ちゃんも、お寺や仏さまが好きなんだね、良く説教を聞きに行くもの。」と
その時祖父は私にこう言いました
「お祖父ちゃんはそう好きというか、…こういう事に興味はないけど、お祖母ちゃんが好きだから」と、
この会話を覚えているので、祖父が宗教に対してあまり興味がなかったのだと私は思っているのです。
反対に、父は若い頃からよく寺へ行き、お経を読み、読経を日課とした程に宗教が大好きな人でした。
愛用の数珠と経本があり、経本は年代を経てばさばさ、いかにも使い込まれたものとなっていました。
この経本で墓前の経を唱えていた姿が恒例でした、これもまた夢の世界のような一コマです。
こうやって思いやってみると、親と子というのは反対のものなのかもしれません。
熱心な信者と、特に宗教には興味のない信者。祖父は現実的な人であったのかもしれません。
とはいえ、時に仏像など買ってきたくらいですから、そこそこに信仰心はあったのかもしれません。
「あの子に買ってきた仏像なのに」
「返してきたがや」
祖父のこの言葉を追い出すと、買ってきた仏像も祖父の信仰からというより、家族への思いやりから、今目の前に現実にいる者達への配慮から、そうなのかもしれません。
やはり祖父は現実的な人であった、なかなかの人物であったのでしょう。
父の前の祖先。