kaeruのつぶやき

日々のつぶやきにお付き合い下さい

納棺。

2014-10-19 23:37:00 | 非詩的なつぶやき

  15日夜、葬儀社との打ち合わせで斎場との関係で遅くとも通夜と告別式

は日曜月曜になるだろうという話でしたが、結局月曜火曜の日程になりました。

15日が水曜でしたから1週間近く自宅に安置されることになっていたのです。

 

 そして、今日納棺ということで、午後夫婦で伺いました。

 三途の川へ向かう旅姿ということで、手甲脚絆に形どったきれを脚と手に

結びます。夫に当る小父さんと息子さんによって脚絆がつけられ、縁者が

紐を結びます。私も縁者のひとりとして、手甲の紐結びをしました。

 胸には三途の川渡りの賃料に当る壱文銭が六個描かれたものが置かれ

ました。

 これらの儀式を通じて、死者になっていく者へ惜別の情が整理され、実

感として受けとめられていくのです。

 

 死の直前の1箇月をこえる闘病と危篤と言われた以後、1週間をこえた

姿は、まさに命を絞り出しきった姿でした。ある意味では、やっと安眠でき

たのか、ここから永眠という時間が始まるのかと棺に納まった故人を思い

ました。                                     合掌。

 

 明日午後、通夜の会場へ向かう遺体に同行し、遺族と一緒に車に乗る予

定です。


遺品。

2014-10-18 15:30:46 | 非詩的なつぶやき

 15日夕方妻の従姉が亡くなりました。

 伯父から私達夫婦に泊まってくれとのことでしたので夜9時近く伺い、丁度

病院から遺体が自宅に着いた時でした。葬儀社の係は私達の父の葬儀で

世話をしてくれた人、その人ともう一人に抱えられた伯母が自宅の部屋に

横たわります。

 その部屋は正月をはじめ私達が訪れると、そこで伯母の手料理を頂いて

いた場所です。 行った時には何となくざわついた部屋も枕飾りが置かれ、

葬儀社の人も帰り静かになりました。

 

 ひとり息子は危篤の連絡で来て、一週間いて病院の判断もあり三日前に

仕事先に戻っていたので、死に目に会えませんでした。こちらに着くのは

16日午後になるといいます。

 今夜は枕元には夫である伯父と従姉夫婦の私達の三人、線香に煙を絶や

すことなくと言っても、夜中の二時近くには横になろうと話し妻が線香を火を

つけ香炉に差しながら 「布団が動いているみたい」と言います。

 私も脇にいたのでよく見ると微かに上下しているように思えるのです。 枕元

の伯父が布団をかるく押えます、伯父にも動いていると映ったのでしょう。

 この現象は心象というべきことでしょう、そんな風に思いながら見ていると動

きが止っています。

 

 翌日は伯父と家の中の片づけ、六畳の部屋は送られてきた段ボールで一杯、

近くに住む従妹にあたる人が仕事の合間をみて駆けつけ手を貸してくれて、片

づけは午前中に終わりました。

 改めて主婦の手が届かない家のあり様を実感する機会でもありました。 この

二三年入院と退院の繰り返しだった家です。夫も80歳をかなり越えている身体

で、日常のことで一杯だったのでしょう。

 遺品のなかに彼女が描いた墨絵が多くあり、素人ながら各展覧会の会場に

飾られてきたものだということは、絵につけられている「紹介札」で分かります。

 

 次の夜、伯父と息子さんとのビールを飲んでの会話に妻と共に入り込み、

そのなかで気に入ったものを頂くことになり、思いのつながる何よりのもの

だと思いました。


「てんがらもん137回」 いいものを伝えたい。

2014-10-17 18:17:01 | 「てんがらもんラジオ」

 今日のゲストの話をひと言ふた言でまとめて言えば、前迫さんのつぎの言葉、

「いいものは伝えなけらばいけない、残していかなければいけない」でしょう。

その時ラジオでは美空ひばりの「リンゴ追分」を流していました、ラジオでは耳に

入らなかったので、これを視聴する方は

http://www.ustream.tv/recorded/54022895 で、

番組の最後から25分位前から視聴していただければ内容を聴き取ることができ

ます。

 ただ、それだけでは何を言っているのか通じません、はじめの方の上床さんのア

イパットによる脳トレの話からゲストの黒岩さんの話の全部を耳にしての感想です。

それは、良いものを伝えたいがどうやったら多く人に伝えられるか、を模索している

者にとって強い関心事です。また、前迫さんの言葉は感想というより決意として聞き

とれ、その決意に私は同感しました。

 

 「映画好きの少女が故郷鹿児島で映画館を経営し、地域の文化の振興に貢献

する」という1行の話ですが、この1行で表わされる一人の女性の人生が周りの者

の志を決意に発展させ、決意は人を行動へと向かわせ、行動は仲間をつくり出し

ます。 黒岩さんの映画仲間の一人が「てんがらもん」チーフパーソナリティーの村

永さんですが、その村永さんが「てんがらもん」のファンの集まりを地元鹿児島で

やりたい、と述べていたのが耳に強く残っています。

 

 「よい放送を伝えていきたい」という志が、多くの仲間づくりへと発展するであろう

姿を見る思いがします。そしてこの間に発表された “「FM ぎんが」サポーターズク

ラブ” が、その志をさらに大きくするうえで有効であろうことを期待して、その案内を

ここに載せておきます。

 http://fm786.jp/images_new/ginsapo_nyukai.pdf 


講師は百歳、『この海のつづきの海を』。

2014-10-14 20:31:43 | つづきの海を はろば...

 『この海のつづきの海を』というのは一冊の本です。著者は黒田義(のりよし)氏、

一昨日の百歳の講師・黒田康子(しづこ)さんの亡夫です。

  この本を黒田さんから私達夫婦へと頂いたのは、かなり前でどういうところ

で頂いたのかすっかり忘れているのですが、その時の話で、夫の戦死した

場所=フイリッピンにどうしても足が向かない、と言われたことを憶えています。

 この本については別に書かねばならないことと思っています。書名になった

義さんの遺詠の「昭和十九年 戦地より」の前書きのある

 この海の つづきの海を はろばろに越えてきにしか 夕日に対ふ    (〇〇上陸)

 に関連してこのブログでも書いていました。

 再度目を通していただければと思います。

コーヒー色の世界。 2013-10-17   コーヒー色の世界 続き。 2013-10-18 

 


「読者登録」始まりました頃。

2014-10-13 22:00:52 | ブログ仲間

 今から振り返ってみると、去年のこの日は「kaeruのつぶやき」史にとって

かなり重要な日だったと思い、そのまま載せます。

 「読者登録」という機能の全体的な評価はわかりませんが、少なくても私の

ブログに関していえば、画期的な発展に寄与してくれたと思います。これから

どう活用していくか楽しみです。

 

 一年前にある意味では今日あるようなブログ仲間の萌芽があったのかと、振

り返って感じています。さらに一年後、この発展がどういう形で現われるのか楽

しみです。

 

kaeru-23 さんが 2013年10月13日 に書かれた記事をお届けします。
 
 ブログは天下の回りもの。
 このgooブログに「読者登録」という機能がついて、「屋根裏人」さんの登録に続いて鹿児島のご婦人が登録との連絡を頂きました。早速ご本人のブログを拝見し、大変たのしい懐かしい思いをしました。70歳ー旅の途中  村永チトセ をクリックしていただければご覧になれます。  ご覧になればお分かりです...
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 ブログ賛歌。
先ほどは鹿児島の未知の御婦人のブログについてつぶやきました。次はそのお兄さんのブログです、もちろん未知の方です。村永さんのブログを見ていましたら、お兄さんが82歳の時(昨年8月)、はじめてブログを書き始めたことを知りました。村永さんのブログは「70歳ー旅の途中」という名前でした、お兄さんのは「82歳...
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 「四面楚歌」と「紙面そーか」
1989年中国の天安門事件の時、まるで日本共産党の犯した誤りでもあるかのような反共宣伝で、「四面楚歌」の感じでした。丁度参議院選挙でもあり、日本共産党の立場を正確に伝えようと懸命にビラ入れをしたものでした。それでも、党の議席は半減してしまいました。 今夏の参議院選挙での躍進、そして今回の...
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続 講師は百歳。

2014-10-12 19:26:41 | つづきの海を はろば...

 今日は2014-09-22講演者は99歳。で紹介しました講演会

でした。

  会場で書籍の販売もしますのでそのお手伝いです、30分くらい前にいけば

十分間にあうだろうと着きましたら、ほぼ満席。案内に先着50名と書かれて

いました、40は越えているなと思いつつ売場に就きましたが、人がどんどん

来て本どころではありません。

 50名で終わりですというわけにはいかなくなって、急きょ隣の会議室との仕

切りを外す作業に。 定時には100名近くになっていました。

                          

 

 この講演会に関して、今日 「雲」さんのブログへのコメントにしましたので、

それを載せます。 ブログは 今日も一年前の句を振り返っています。 です。

 

老いから得るもの。  (kaeru)2014-10-12 18:42:49

今日は講演会でしたが、聴き取りが出来ません。
行ったのは役目をもってのことですから講師の声が聞
えなくてもやむを得ないのですが、打ち合わせなどで
は困りました。

たぶんこうして出ていっても困ることが多くなり、出無
精になっていくのではないでしょうか。

その点今日の講師は数えで百歳の方です。たしかに
聞きづらい(耳の良い人でも)し、マイクを持ち続けられません。
でも、予定の倍を越す百人以上の人が最後まで聞き
いっていました。百年生きてきた人から聞く場そのも
のが、他では得難い体験でした。

  終わりに講演中の黒田さんの姿です。


続 仙台にて、芭蕉隠密説のこと。

2014-10-11 21:27:58 | kaeruの「おくのほそ道」

 まずは昨日の続きです。

≪しかし東北の外様の雄藩仙台伊達領に来ると、そう簡単に足を踏み入れ

ることはできなかった。口留番所が設置され、ここで入国手続きをしなければ

ならなかったのである。その国境の番所が越河(こすごう)にあった。

 番所の役人に「何者であるか、どこへ行くのか」を問われ、不審者でないと

わかると入判(手判、入切手、入手形、通手形などと書かれていることもある)

が渡される。これが入国許可を受けた証明書で、出国するときこれを見せない

と密入国者とみなされ、すんなり出国することはできなくなるのだ。仙台藩では

こうした番所が、国内すべての街道の国境近くに二十四ヵ所も設けられていた。

 (略)

 ~仙台城下の旅籠屋では、入判を持っていない旅人は正規の街道を通らな

いで来た怪しい者とみなし、一切泊めなかったようである。~≫

 

 さて、当時の仙台藩での旅人の置かれている一般的は状況の概略を頭に入

れていただいて、次の本について話を移します。

 

 これはアマゾンから写した本で帯がありません。帯に書かれていることが本の

内容を示しています、これです。

芭蕉はなぜ隠密になってしまったのか?

               「奥の細道」というミステリーが始まる。

 芭蕉隠密説はそう珍しい話ではありません。しかし、芭蕉研究専門家で「芭蕉

は幕府隠密だった」と考える、たぶんまちがいなく日本で最初の専門家でしょう。

 これは素人の私が言っていることでなく著者自身・光田和伸氏がこの本の述べ

ていることです。しかし、

≪ この本は、芭蕉が幕府隠密だったことを論証して得意になるために書かれた

のではない。芭蕉がどうして幕府隠密になってしまったのか、その過程について

考えてゆく本である。いや、幕府隠密になってしまった日から、やっと私たちの

知っている芭蕉への道が始まったのだと考えている。もし、三十代の末に隠密に

なるということが起きなければ、芭蕉は文学史に名前を残すような存在にはなら

なかっただろう。 ~ 芭蕉という文学者がその後になしとげたことに比べれば、彼

が「幕府隠密」だったことなどということは、たいしたことではないとも思えてくる。≫

 

 私はこの本を一読して芭蕉の幕府隠密説に傾きかけています、歴史的知見が乏

しいので提示される「事実」を検証することができません。なるほどそう考える方が

合理的だと思えることがある、という程度ですから、かなり浅い理解ですが。

 それよりも私の心に届いて来るのは、

≪生きる。そして、自分の人生を実現する。そのことをめぐる運命と不思議について

考える一つのきっかけとして、この本が読者の胸に届けばさいわいである。≫

という著者の言葉です。

 一度きりの人生とはよく言われる言葉です。芭蕉も曽良も17世紀の江戸時代とい

う日本を生きた「時代の子」です。私たちも20世紀から21世紀をという時代の制約

を受けつつ生きている「時代の子」です。

 同時に17世紀と現代との違いを生きる個人として理解できる「子」でもあります、

それは自分の運命を切り開く可能性に満ちた時代を生きていることです。

 ならばこの時代を舞台として知り、「運命と不思議」を含め自分をどう実現するか

考えていきたいものです。


仙台にて。

2014-10-10 22:09:55 | kaeruの「おくのほそ道」

今日13時少し過ぎに届いたアプリによる報告は昨日までの状況です。

今朝は9000歩、午後も合せると1万4千歩を超えるでしょうから、仙台着は

確実でタイトルに誤りなしです。

 

芭蕉が仙台に着いたのは元禄二年五月四日(1689年6月20日)で、その

朝発った白石から十二里(48キロ)の道のりでした。

 

■奥の細道の旅

○現在地  白石

○次の目的地  仙台

○次の目的地までの距離  1.9km

○次の目的地までの歩数  2,579歩で達成です。

こう書いていると簡単に仙台領に入れたように思ってしまいますが、当時の

状況はそう簡単ではなかったようです。

金森敦子さんの本から。

「仙台」 旅人への警戒厳しい伊達領に入る

 入国許可がなければ宿泊お断り

 これまでの芭蕉と曽良は、ほとんど国境ということは意識してはいなかった

ろう。 江戸を出発してから福島領を出るまでの街道は、幕府直轄領か、関ヶ原

の戦以前から徳川氏に従った譜代大名の領地ばかりで、幕府に敵対する大名

はいない。 だから栗橋の関所の通行もごく簡単だった。 それぞれの国境いは

「これより誰それの領地」 といった牓示杭(ぼうじくい)が立っているだけである。≫

 しかし、外様大名の雄藩であった仙台伊達領ではそうはいかなかったのです。

そのへんのことは明日にします。


「てんがらもん136回」 魅了される郷土愛。

2014-10-09 21:09:40 | 「てんがらもんラジオ」

「てんがらもん136回」です http://www.ustream.tv/recorded/53738799 

 今回のゲストの向井明美さんは準レギュラーで顔を出し、パーソナリティー役もこ

なしていますが、やはりバスガイドそれもベテラン中のベテランだと改めて感じまし

た。 とはいえ、相変わらずの不調パソコン等のためこのベテランさんの話をはじめ

から終わりまで通して聴き取ることが出来ませんでした。 しかし、印象深く聞けて

切れ目を感じることなく気持ちにおさまっています。

 

 長崎県島原の方向から鹿児島県出水に向かって飛んでくる鶴の話をしていました。

点々が大きくなってくる様を手を広げ 「想像してみて下さい、青い空を飛んでくる姿を」

と熱をこめて話します。何十人もの観光客にも、こうして手をひろげ頭上の空を飛んで

くる鶴の群れを頭に描いてもらっているに違いありません。

 長島について語るときも熱がこもります。それは島の美しさ、花を地域毎に競って咲

かせ、個人宅でもコンテストに参加すること、ゴミがひとつ落ちてないのですよと強調

します。そして「刺し身が美味しいんですよねー」と言ったときには多分口のなかは唾

でいっぱいになっていたんではないでしょうか、聞いたこちらが唾の出る思いでしたか

ら。

 鹿児島県に島がどの位あるか、というクイズも、それからはじまった島に関する話も

ぜひ聞いて頭に入れておきたいことです。鹿児島県は長崎県に次ぐ第二位だそうです。

605のうち32の島に人が住んでいると紹介していました。人口14人の島のことも触

れられていましたが、以前椋鳩十が紹介されたとき、鳩十が島の人の暮らしに関心をも

ち多くの島を訪れたことを思い出しました。

 

 向井さんの郷土への愛情と関心は、椋鳩十の島の自然と人々に対する愛情の深さ

に通ずるのではないでしょうか、これが聞く人を魅了している源泉だと思います。

 これからの観光の季節十分観光客を魅了し、そこで加えられた魅力でまた私達視聴

者を魅了してもらいたいと思い、楽しみにしています。


生命維持ということ。

2014-10-08 20:51:14 | せいじの政治カフェ

 昨日お見舞いに伺った妻の従姉が危篤で、一時間以内に病院に来てくれ

と彼女の自宅に連絡があったのは一昨日の午前中だったそうです。

 夫がタクシーを飛ばし、一人息子が東北から駆けつけ、私の妻も急ぎ会い

に行きました。

 昨夜私達夫婦が見舞った時は、80余歳の夫は腕をベットに入れ時折声を

かけ背に手を当てていました。1時間近くそんな状況で、息子さんが来て交代

に来るまで曲がった腰のまま同じ姿勢でした。その人の顔の穏やかであること

が非常に印象に残っています。

 危篤の知らせから三日が過ぎようとしています、昨夜会った時とあまり変わり

のない状況なのでしょう。

 

 本棚から引っ張り出した本に書かれていたことを引用しておきます。

 尊厳死と題する章の書き出しです。

≪「妻が危篤状態になった時、ベットのまわりに付き添っていた家族や身内の者

たちが、いっせいにベットの脇の生命維持装置のモニターに釘づけいになりまし

た。 医師から「御臨終です」といわれて、はじめて病人の顔を見たような気が

するんです。 機器ばかり気をとられていて、もっとちゃんと妻の顔を見守ってや

るべきだったと後悔しています」≫

 

 昨夜も書きましたが、私の経験でも高齢者の寿命の最期の最後まで、医療機関

は力を尽くしています。 病人はその機能の助けも得ながら生命を維持し続けます。

その現場には、心から敬意を表する気持ちが湧いてきます。

 もう一つの経験として、義母の最期にあたり掛り付けの医師から、大きな病院に

移せばかなり生きながらえることはできる、どうしますかと問われ家族で相談して

自宅で最期を迎えることを決めました。

 義父もまた入院先の病院から自宅に戻し、身内はじめ近所の人たちにも顔を合

せて逝くことができました。

 

 さて、私達夫婦はどうするか、先のあることでしょう。しかし、考え方の整理は早す

ぎることはないでしょう。天災のように避けがたい急なことでなければ、自分で選べ

ることですから、自分らしく、自分達夫婦らしい最期をと考えるのも不思議な楽しさ

ではないでしょうか。