kaeruのつぶやき

日々のつぶやきにお付き合い下さい

喪中葉書。

2015-11-20 21:11:23 | どこまで続くかこのブログ

 賀状の売出も近ずいてきました。一昨日二枚昨日一枚と喪中葉書も届きはじめます。知人のOさんからは弟さんが亡くなったのでと、75歳とありました。Oさんは確か私と同じ歳だったと思います、とするとこの年齢は私の弟と同じ位です。苗字が違うので奥さんの弟さんでしょうか。それとも他家に養子に入った方でしょうか。Oさんとはわずかの期間、仕事起こしなどを一緒に取り組んだことがあります。お互いの身内のことまで知り合う仲にはならずにこの町を離れてしまいました。

身内のなかでは従兄弟の奥さんが亡くなっての挨拶です、81歳とあります。その姉に当たる方からと甥に当たる人から届きました。私の実家の母方の本家に当たる家で、その家の長男と次男に姉妹が嫁いできていたのです。私の従兄弟に当たる兄弟のうち弟さんはかなり若い時亡くなっています。亡くなった方は弟さんの奥さんで、喪中葉書を送ってこられたのが兄嫁に当たる姉さんです。

まだこれかも届くのでしょうか。

喪中葉書が季語になっているかと歳時記を開きましたが、そのものでは出ていません。季語としては「賀状書く」に含まれていました。

     賀状書く喪中葉書かへし読み     川畑火川

     喪の知らせふゆる齢や賀状書く   柴田澄子


「てんがらもん」192回、生の音楽の感動。

2015-11-19 18:01:09 | 「てんがらもんラジオ」

今回の番組は、ここをクリックして下さい。

「てんがらもん」192回 ゲスト 労音鹿児島センター事務局長上田史一さん

この番組を視聴した人にはクラシックファンもそうでない人もおられると思います。クラシックには縁がないがロックならジャズならばという音楽ファンも多いでしょう、でも私はそのどれにも当てはまらないのです。

それだけに上田さんのこのひと言が痛く感じます、「生の音楽の良さを知らないままズートきている人が多い、嫌いだというわけではない食わず嫌いだ」と。ここで言う生の音楽とはクラシックに限りません。例えば上田さんの話だけでもその感動ぶりが伝わってきたアイルランドの民族音楽であり民族舞踏でもあるアイリュッシュダンスの公演です。演奏が終わった時の観客の反応を「物凄い歓声、怒号というかもの凄い反応、ウォーという感じ」と言い表しておられました。

それは生の現場がいかに人の心を揺り動かすか、を示してくれたのです。こういう感動に身を置きたい、この感動を一人でも多くの人に味わってもらおうと勤労者の音楽鑑賞運動として労音が発足したのだと思います。鹿児島では1954年、九州で2番目だったそうです。村永さんが福岡から鹿児島に出てきた50年以上前の思い出もふくめての話では当時労音運動に尽力した多くの人が故人となられているようです。ここでも地域の文化活動の土壌を耕し豊かにしてきた人々のあったこと、家屋敷を売って、という話も出ましたがそういうことが今の上田さんの活動の芯をつくっておられるのでしょう。

だからこそ、来年には海外からオペラ、オーケストラ、バレー団が来日し国内の合唱団ともども大規模な公演を主催することになった、この60年間の歴史のなかではじめてのことに取組む構えが生まれるのだと感じました。村永さんがある政党人の葬儀でその息子さんが弔辞で披露した言葉が印象に残っています。子供として父親の「仕事」を嫌がったことに対して「職業ではないよ、生き方だよ」と。

上田さんの話を通じても生き方として選んだ「仕事」はその人の終焉の日までその人を支え、その「仕事」の実りを求め続けるだろうと思います。


お口の体操。

2015-11-18 23:03:35 | 葉山そして人

地域のお婆ちゃんたちの集りで、月に一度昼飯をみんなで食べ駄弁ります。

本当はお爺ちゃんもいたのですが、いつの間にやら来なくなって私が孤塁を守っています。駄弁るのは食事中で、その前は歌を歌います。ギターを弾ける人が中心で。

今日は午後「お口の体操」でした。

お口といっても舌の運動で、舌が円滑に動くことが大切だ!と教えられました。

そこで、この「サンバ」を手振りよろしく歌います。

それはこんな風にです。

今日来られた9人のうち食事後5人が帰ってしまいましたので、教えてくれた若い女性と生徒が3人残りました。私は撮し役ですのでこのお二人の生徒の勉強中の姿で、会の会長さんと元会長さんです。

お口の体操の基本は「あ、い、う、え、お」だそうで、この歌も手振り身振りを入れリズムカルに歌います。

普段まったく気にしていない舌の運動、これは健康を考えるうえで盲点でした。教えてくれた人の話では男性の高齢者が舌に衰えが多いそうで、唾液が少なくなり食事に障害が出たり発音がしにくくなるそうで、要注意ですね、御同輩。


住んでいる街を見る目。

2015-11-17 21:19:34 | 葉山そして人

写真が逆さまになるようです、ようですというのは私の場合でもタブレットでは正常なのですがスマホでは逆さまになっています。昨日のコメントへの返信でもばやきましたがなぜか分かりません。今回も同じかもしれませんがお許し下さい。

旧脇村邸は昭和初期の逗子の別荘建築の特徴をみせてくれます。

 

全体は和洋折衷で階下には暖炉があり洋風の応接間があります。

二階からは向いの家越しではありますが、逗子湾から江ノ島富士山が見えるのです。多分昭和初期当時は畑地の向こうに広がっていたのではないでしょうか。

 

今回は「逗子の別荘邸園を散策し、逗子が輩出した芥川賞作家の描写した逗子を読む」という催しですから関係作家の逗子描写が紹介されていました。

作家と紹介作品は、

堀田善衛の『風景異色』、石原慎太郎の『太陽の季節』、林京子の『父のいる谷』、辺見庸の『相模の海を愛し続けて』です。全部は紹介できませんが一番新しい辺見庸の書かれたものの一部を抜き書きしておきます。これは「月刊かながわ」の1993年2月号に載せられた「とても不思議な帰一感」という見出しの一文です。

辺見庸は昭和19年生まれ、宮城県の「石巻市の郊外で私は少年時代を過ごした。海が遊び場だった。海岸を日がな一日歩いて、ひばりの卵を見つけるのが無上の喜びだった。ひばりの卵を宝石のように思っていたのだ。台風の夜は、荒れ狂う波の音におびえはがら眠った。大漁旗に飾られた船も、漁師の無残な死も目にした。すべて、いずれは海へ。この、どうにも不可思議な海への帰一感は、そのころそうしてすりこまれたのだろう。」

大学卒、通信社の横浜支局へ、生まれた長女に「海」と名づける。

「逗子に移り住んでからは、神奈川の海はほとんどを見てまわった。波の荒れる三陸の海とはまた違う、相模の海の眺めは、柔らかな分だけ初めはもの足りなかったけれど、荒れくれた私自身の生活が鎮まってくるにつれ、年とともに目についてずいぶん心地よくなってきた。いまでも海岸への散歩をしばらく欠かすと喉が渇いたようになり、矢も盾もたまらず家をあとにするのだ。」

本社勤務から海外特派員生活へ。

「米国はカンザス州の草原などをひとり何時間も車で走っていたときのこと。ゆるやかな上りになり下りになる坂道に陽炎が立っていた。坂の向こうに露草色の空と綿雲しかない。すると頭に快い痺れのようなものがきて、私はいま、すぐそこの海に向かって走っている、じきに着く、という感覚にすっぽりと陥ったのだ。アクセルを踏み込む。ところが、海なんかない。あるわけがない。いけども、いけどもだ。その失望の深さ。」

新疆ウイグルでもモンゴルやプータンでも。「風景の奥に幻の海を見て、胸踊らせ、裏切られた。大地にあって海へと赴く感覚がそれほど強くなっているのだ。山には還れない。大地には還れない。ただ海だけ。私にはそんな特異な帰一本能があるのか。」

「逗子に帰って来たときの安堵感は、だからひとしおだ。海までの距離、そこにいたるべき方向を常に感じていられることの落ち着きのよさといったらない。それに、久しいときを経て相模の海に再び会える嬉しさは、田越川沿いに下っていきながら、どきどきして歩調が乱れてしまうほどだ。」

三浦半島の逗子葉山秋谷の海岸を歩く、

「それぞれの眺め異なっても、海、空を奏でる穏やかでのびやかな階調が必ずある。盛りあがり、くぼみ、鱗のように光りを散ら水の優雅な無限展開がある。それらを目でなぞりつつ、懐かしい海とともにある喜びを私はかみしめる。海への帰一感はいっこうに減る様子がない。」  


アリバイ写真。

2015-11-16 23:22:05 | 葉山そして人

地域の文化活動  で触れました逗子にある旧脇村邸を中心とした文学散歩に昨日行ってきました。当初予定の30人参加は難しいと言っていましたが40名近くの参加でかなりの関心の高さが実感できました。

 今夜は行って来ましたのアリバイ的報告で写真だけ載せます。明日つぶやこうと思います。脇村邸は徳富蘆花を記念した蘆花公園内にあります。

行く途中にあった徳富蘆花と蘇峰の顕彰碑、近くに「徳富」の表札の家もありました。

 

脇村邸に向かう列。

 

脇村邸門前「蘆花記念公園」の案内板です。

 

普段はこの邸には入れんません、特別に見学できたと主催者から聞いていました。

ではまた明日。


今日の一冊。

2015-11-15 23:17:29 | 本のひと言

  まず「しんぶん赤旗」の当該記事は「中台トップの会談は、1949年に内戦で敗れた国民党が台湾に逃れ、中華人民共和国が成立して以来初めて」と書き出しています。中国の習近平国家主席と台湾の馬英九総統が11月7日会談したことを受けての報道です。

さて、右の『中台関係史』は1999年1月発行のものですが「台湾問題が、来世紀にかけての東アジアの主要な争点として浮上している。~95年夏から翌年春にかけての台湾海峡の緊張は、中台の対立が日米を巻き込んだ大規模な戦争に発展しかねない問題をはらんでいることを改めてみせつけた。」という書き出しではじまっています。

ところでなぜこの本が私の本棚にあるのか、ですがそれは本の書き出しにある「台湾海峡の緊張」に関係します。当時台湾の李登輝総裁の訪米を機に一気に緊迫化した台湾海峡、中国人民解放軍による台湾近海を標的にしたミサイル発射演習などが報じら、私の気持を暗くしていました。

台湾に近い沖縄県石垣島には娘の一家がいます、その頃日々の報道を通じて中国と台湾の歴史の基本を知っておかねばという思いを持ったものです。そんな思いがあってそれから数年後多分たまたま入ったブックオフでこの本を見つけたのでしょう、買っておきました。ただかなりの分量もありまた馴染みの薄い台湾のことなので積読のままできていました。今度手にして読み出したら予想外に面白いのです。

まだまだ目を通しているのは国民党と中国共産党の内戦状態が書かれている部分ですが、ここでは政治家毛沢東が「戦争は他の手段をもってする政治の継続である」を地でゆく様をみせてくれます。この本の帯には「中台関係のゆくえが日本の将来を左右する。中台関係の将来は日本の動向によって決まる」と書かれています。日本の一地域石垣島はもちろんまさに日本の将来もここにはあるのです。

今回の中台トップ会談の意義を理解するためにも有益な一冊かと思います。


「てんがらもん」191回 「終活、もうちと 気張ってみましょかい」

2015-11-12 19:08:31 | 「てんがらもんラジオ」

番組はここのクリックで   「てんがらもんラジオ」191回  ゲスト 合原千尋さん

この番組を視聴し終わったあと「もうちょと 気張ってみましょかい」の声がいつにもなく耳に残っていました。番組の節目節目で聴かれる言葉ですが、今回のゲスト合原千尋さんが語っていた「終活」を一言でいうとこの言葉になるのではと思いました。

「終活」 という言葉です、番組で村永さんがパソコンで変換出来ないと言っていましたが平成21年2009年につくり出された言葉だそうで、まだ手元の国語辞典に出てきません。就職活動を意味する就活は国語辞典にも出てきますが。

それでは終活はどういう「活動」か、国語辞典と違って「検索」すると出てきます。まず葬式の準備とか相続問題など死去に伴うことへの準備活動という意味合いです。しかし、それだけでは今回の番組から「気張ってみましょかい」の気持ちにはなりません。

35歳の合原さんが行政書士の立場から言わんとしたことは、それらを準備して安心して今日を楽しく生きてもらいたい、終焉を見つめ自分らしく笑顔で暮らしてもらいたいという思いです。そういう思いからみてショックを受けたことがあります。60歳70歳くらいの方に何かやりたい事があるかと問いかけてみて「やりたい事がない、やりたくない事もない」という返事です。それまでの人生で我慢に我慢を重ねてきて気力が失せてしまったのか、そういう人に自分らしく生きてもらうためにやれる事は全部やる!と熱く語ってくれました。

その合原さんの話に平均年齢70歳をこえるレギラーの言う「もうちょと 気張ってみましょかい」が重なります。「もうちょっと」をこれから何年間と置いたとき、その期間「気張ってみましょかい」とは「自分を失わずに生きよう」という呼びかけとも聞こえてきたのです。あわせてそういう人生の価値観を広げる仲間づくりが「地域力」といえるのではないかとも思いました。

最後に合原さんのブログを見てみました。ここです、  http://ameblo.jp/wwtk/


ある『資本論』翻訳、実は……。

2015-11-11 23:37:55 | kaeruの『資本論』

今日の「資本論講読会」のことですが、四人の持ってくる本がみんな違う出版社から出ているものもので、Aさんは青木書店の長谷部文雄訳、Iさんが岩波書店で向坂逸郎訳、Oさんの大月書店は岡崎次郎訳です、私のは新日本出版社で「資本論翻訳委員会訳」となっています。

講読会のやり方は一定のページ数毎に担当者が「説明」をするわけですが、何ページのどこそこというわけにいかないので、文中の「注」に付けられている数字を頼りに該当個所を示すことにしています。

当然のことですが、内容的には同じでも表し方が違います。その違いが面白いので本を見せ合って該当部分がどう言い表されているのか比べみます。「原文はどうなっているの?」という話が出て、昨日のGoogle Booksのことを思い出しました。タブレットを持っていなかったので見ることができませんでしたが、次の機会にはその場で原文照会をやって見ようと思います。多分ドイツ語の分かる人もいるでしょう。

さて帰宅して蔵書整理の際、棚の奥にあったこの本を開いてみました。

岡崎次郎、大月書店の『資本論』の訳者ですが、中を拾い読みをしたら岩波書店のものも向坂逸郎訳となっていますが内実は共訳というより岡崎訳だったようです。

ようです、というのはこの話は1950年くらいの時のことだからです。

当初、向坂から岡崎に翻訳の話がきたとき『すでに第一分冊は向坂の手でできているので名義はずっと向坂訳とする。しかし、第ニ分冊以下は向坂と岡崎とが代わる代わる適当な分量でやる~、印税は折半」ということになっていたそうです。

ところが「岡崎訳」の第二分冊ができてみると、訳者「あとがき」に「この第二分冊の第三篇からは岡崎次郎氏に下訳(付点あり)をしてもらうことにした」といつの間にか下働にされ、その後は「交代訳」の話はなくなり「下訳」という「全訳」を「私(岡崎)がやり、向坂はその原稿かまたは校正刷に目を通すだけ、ということになってしまった」のだそうです。にもかかわらず「印税二等分」は変わらずだったとこの本に書かれています。

今は私の手元にある岩波文庫『資本論』1969年発行の第二分冊には「訳者あとがき」は無く「下訳」を確かめることはできません。