ある人を知るための良い方法はその人の友人を知ることだとか、その人の蔵書を見ることとか言われます。類は友を呼ぶとか、友を通じてどんな種類の人間かつかめるというわけです。蔵書の場合もどんなことに関心を持っているかを通じてその人の大枠が分かるというわけです。
この話はどちらにしても人を見る目、本を評価する目が「良い」ことを前提にしているわけで、その「良いこと」の基準については各々の判断に任されたことです。となると自己評価をする場合は、自分の友人の誰彼をどう評価するか、そのためには誰彼の友人を知らねばなりません。それが分かってくると自分がどういう友人関係の一人としているのか見えてくるというわけです。そしてある場合は愕然としたりまたは我ながら頼もしいと思ったりするわけです。
蔵書の場合は、過ぎた日々が一枚の地図になっているとすれば、蔵書の示すのはそこに書かれている道筋と言えるでしょう。一本の道というわけではなく枝分かれをし、ある時は太くある時は藪のなかに入りこんで、しかし抜け出ていると見えます。あわせて見えてくるのは出版界の状況と、更にそれを生み出す社会の変化です。
自分が本を出版しない以上蔵書といっても全て他人のもので、こちらはかなり受け身で選択する自由はあるといっても与えられた自由です。といっても自らの選択で積み重ねてきた土壌のようなもので、ここからどういう草木を育てるかは己の精神という種、芽、根、茎、幹、葉、そして果実、それらの独自の作業によるものです。
まことに精神というものは植物的で、社会という光を受けて過ぎた日々という土壌から栄養分を吸い上げ成長するものです。蔵書の整理とは畑に鍬を入れ畝を作る作業に似ています。