アンニバレの基底にはマニエリスム的なもの(封建的なもの)に対する怒りがあり、また、反宗教改革という時代の要請として、民衆教化のために宗教画自体の変化も求められていた。(トレント宗教会議でね)
例えば、ガブリエーレ・パレオッティ『聖俗画像論』では「説教師としての絵画」が求められ、トンマーゾ・ラウレーティ(Tommaso Laureti ,1530 - 1602)の《聖スザンナの殉教》のようなリアリティのある祭壇画も描かれた。
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トンマーゾ・ラウレーティ《聖スザンナの殉教》(1595-96年)サンタ・スザンナ聖堂(ローマ)
ちなみに、カラヴァッジョ《聖ルチアの埋葬》に影響を与えたようだ。
目の前の鑑賞者との対話ができるよう、わかりやすく伝えることが宗教画の目標になる。
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アンニバレ・カラッチ作《聖ロクスの施し》(1595年)ドレスデン・アルテ・マイスター絵画館
歴史・神話画は空間芸術であり時間芸術である。アンニバレのInvenzioneによりモデル・鑑賞者にも開かれたものになっている。
蛇足だが(^^ゞ、ドメニキーノがアンニバレを手本として描いたのが《聖女チェチリアの施し》だ。
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ドメニキーノ《聖女チェチリアの施し》(1612-15年)サン・ルイジ・デイ・フランチェージ聖堂ポレ礼拝堂
ご存じの通り、コンタレッリ礼拝堂にはカラヴァッジョがある。
ということで、まだ続く(^^;; (全然サクッとじゃなくてすみません~)
例えば、ガブリエーレ・パレオッティ『聖俗画像論』では「説教師としての絵画」が求められ、トンマーゾ・ラウレーティ(Tommaso Laureti ,1530 - 1602)の《聖スザンナの殉教》のようなリアリティのある祭壇画も描かれた。
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トンマーゾ・ラウレーティ《聖スザンナの殉教》(1595-96年)サンタ・スザンナ聖堂(ローマ)
ちなみに、カラヴァッジョ《聖ルチアの埋葬》に影響を与えたようだ。
目の前の鑑賞者との対話ができるよう、わかりやすく伝えることが宗教画の目標になる。
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アンニバレ・カラッチ作《聖ロクスの施し》(1595年)ドレスデン・アルテ・マイスター絵画館
歴史・神話画は空間芸術であり時間芸術である。アンニバレのInvenzioneによりモデル・鑑賞者にも開かれたものになっている。
蛇足だが(^^ゞ、ドメニキーノがアンニバレを手本として描いたのが《聖女チェチリアの施し》だ。
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ドメニキーノ《聖女チェチリアの施し》(1612-15年)サン・ルイジ・デイ・フランチェージ聖堂ポレ礼拝堂
ご存じの通り、コンタレッリ礼拝堂にはカラヴァッジョがある。
ということで、まだ続く(^^;; (全然サクッとじゃなくてすみません~)