花耀亭日記

何でもありの気まぐれ日記

ギュスターヴ・モロー展

2005-09-10 04:30:38 | 展覧会
書くのが遅くなってしまったが、ゲストのokiさんに頂いた招待券でBunkamura「ギュスターヴ・モロー展」を観た。
http://www.bunkamura.co.jp/museum/event/moreau/

パリのサン・ラザール駅から程近いラ・ロシュフーコー街の一角にギュスターヴ・モロー美術館はある。一昨年訪ねたのだが、何故か日本人客が異常に多くて、日本人のモロー好きを知ることになった。まぁ、そう言う花耀亭だって…ね(笑)

モローに惹かれたのは中学生のころだろうか、ある詩集の表紙が「一角獣」で、その幻想的な美しさに惹かれた。その後大原美術館作品を観、そして、ユイスマンス「さかしま」で再びモローに注目…当時絵画好きではなかった私には珍しく関心のあった画家だった。まぁ、若気の至りでお耽美に走った時期があった所為もあるけれど(汗)、何故だろうと考える時、今回の展覧会で気がついたのだが、モローにはラファエロ前派と同じく日本の少女漫画の原型があるからではないだろうか?物語性を持つイラストレーション的美を感じるのだ。

さて、今回の展示はモロー美術館の過剰とも思える作品群のなかから厳選整理されたものと見えた。各テーマ別の展示もすっきりとわかりやすく、傍らの解説は神話や聖書のストーリーをも丁寧に説明している。それに、作品ができるまでの素描・習作も並列展示することによりモローの制作過程が伺えてとても興味深かった。
モロー美術館でも感じたことだが、モローの水彩画は面白い。「一角獣」も水彩画であるが、その宝石のような色彩の効果が幻想性を深めている。特に補色である赤と緑の使い方は素晴らしい。赤は血でありルビーであり、緑は神秘なエメラルドと化す。モローのエメラルドグリーンは蛍光色のように光を発しているようにさえ思えた。

今回、やはり印度風大作「ユピテルとセメレー」が来なかったのは残念だったが(油彩下絵は来ていた)、「一角獣」「エウロペの誘拐」や「サロメ」シリーズが来たので良しとしなければならないだろう。モロー美術館自体にも完成された油彩画は少ない。
実は今回の展示作品の中で一番興味深く観てしまったのは「エウロペの誘拐」だった。完成した油彩作品だけでなく並んで展示されていた構想段階からの人物デッサンや下絵を観ていても、私的にどうもエウロペがユピエルを誘惑しているように見えるのだ(^^;;

ティツィアーノなど古典絵画でも同主題は多く描かれているが、大抵走り出した白牛背上のエウロペが驚いて助けを求めていたりする。しかし、モロー作品では白い牛は神の顔になっていて、その視線の先に流し目のエウロペがいる。図録によれば、ユピテルの背に乗った瞬間であり「まだ不安の色はない」状態を描いているとのこと。う~ん、そうかなぁ?わざわざ牛の顔をユピエルの顔に描いたのは眼(視線)を描くためだったように思われるのだが…。きっとモローはユピテルとエウロペの視線を合わせたかったのではないだろうか。では、何故?
ここからは花耀亭の想像(誇大妄想)なのだが、もしかしてユピテルはモロー自身であり、エウロペは愛人アレキサンドリーヌではないだろうか?「エウロペの誘拐」は「エウロペの誘惑」によりユピテルが走り出したのであり、ふたりの合意だったと言い訳しているのかもしれない(笑)。では、誰に対して?もちろん自分自身に、そして、愛する母に…。

モローの幻想性を帯びた作風は当時でも異質な輝きを放っていたのではないかと察しられる。時代から背を向け人工楽園へと逃げ込んだ「さかしま」のデ・ゼッサントと同じように、モローも神話や宗教的世界を描くことにより自分の壮大な創造世界に住んでいたのかもしれない。そんなモローを守り支えていたのは母でありアレキサンドリーヌという2人の女性のような気がするのだが...。

映画「モーターサイクル・ダイアリーズ」

2005-09-07 03:16:03 | 映画
映画「モーターサイクル・ダイアリーズ」と「フィデルとチェ」をDVDで立て続けに観た。
http://www.herald.co.jp/official/m_cycle_diaries/

アルゼンチンの医学生エルネストは、親友アルベルトと中古のおんぼろバイクに乗り南米大陸を縦断する冒険の旅に出る。その大陸を縦走する熱き冒険心とアルベルトとの友情、旅で出会う人々との触れ合い…そこから見据えて行く南米の現実と向き合う心の成長、そんな諸々が観ている私の心を暖かく揺らした。「モーターサイクル・ダイアリーズ」は青春ロードムービーとして優れた作品だと思う。

一昨年モスクワに行った時、赤の広場へ続く地下道にTシャツを売る店があった。店頭で見かけたゲバラTシャツ。ゲバラは20世紀の革命アイコンなのかもしれない。資本の自由化されたロシアで革命家が商品化されていることになにやら皮肉なものを感じた(^^;
でも、私はエルネストの後の姿である革命家チェ・ゲバラを良く知らない…。故にTSUTAYAの棚で「モーターサイクル・ダイアリーズ」の隣に並んでいた「フィデルとチェ」を観ることにした。しかし…

「フィデルとチェ」はフィデル・カストロを主役にしたキューバ革命を描いた映画だった。アメリカ資本が独裁政権と結託して島を経済的に支配する。真の独立を求めてゲリラ戦を始めるフィデル、そしてそこに参戦するチェ・ゲバラ。しかし、そこに描かれる世界はやるせない。理想に燃えた革命運動も結局は同じような粛清を伴う独裁政権に取って代わった、とこの映画は言いたいようであった。ここでのゲバラは過激さだけが強調されている。クレジットを読むと2002年アメリカ映画。確かに英語を話すフィデルとチェであった(苦笑)

製作する側の視点の違いによるものか、描かれたゲバラの印象もまた異なる。どうも登場人物たちに対するリスペクトの違いによるもののようにも思われる。私には製作者たちの志の違いまで見えてきたような気がした。