花耀亭日記

何でもありの気まぐれ日記

福岡市美術館「永遠のローマ展」サクッと感想(1)

2024-02-26 23:17:19 | 展覧会

福岡市美術館「永遠のローマ展」を観た感想をサクッと書きたい。

https://roma2023-24.jp/

ローマのカンピドリオの丘に建つカピトリーノ美術館(I Musei Capitorini)には多分3回ほど観に行っていると思う。いつも彫刻部門は駆け足で、絵画部門はじっくりと、というパターンだったので、今回は彫刻部門もちゃんと観ようと思ったら、レプリカが意外に多くてちょっとがっかりだった

上↑写真は昔撮ったオリジナルの《カピトリーノの牝狼》。現在のカピトリーノでは《マルクス・アウレリウス騎馬像》と同じ大展示室に置かれているようだ。今回の展覧会でも章立てが、「Ⅰ ローマ建国神話の創造」「Ⅱ 古代ローマ帝国の栄光」と続くのと同じで、古代ローマの栄光に郷愁を感じているのかも?

で、この建国神話の章で私的に興味深かったのは、牝狼と双子が描かれた《ボルセナの鏡》だった。

《ボルセナの鏡》(前4世紀)カピトリーノ美術館

実は、ヴィラ・ジュリア-国立エトルリア博物館で観た鏡を想起したのだ。

写真↑は撮ったが、残念ながら正式な名称や年代は記憶していない。多分、古代ローマとエトルリアが(戦いながら)併存していた時代の鏡だと思われる。ローマの鏡は台座置き用で、エトルリアの鏡は手持ち用なのだろう。後にエトルリアはローマの支配下に入るが、交易や文化的な共通点も意外に多かったのかもしれないと想像してしまった。

「Ⅲ 美術館の誕生からミケランジェロによる広場構想」では、もちろんミケランジェロの広場設計が素晴らしいのだけれど、美術館誕生が教皇クレメンス12世の肝いりだったと初めて知ってしまった。ちなみに、この展覧会は実質的に「カピトリーノ美術館展」だしね。

ということで、駆け足ごめんで、次回は「Ⅳ 絵画コレクション」!!


初めての福岡(1)

2024-02-24 00:00:09 | 国内旅行

福岡に一泊二日で行ってきた。もちろん、お目当ては福岡市美術館「永遠の都 ローマ展」であったが、更に、事前にゲストの山科さんから九州国立博物館「長沢芦雪」展チケット、及び、福岡&大宰府情報を頂いていたので、しっかり楽しむことができた。(山科さんに感謝!!)

仙台空港から朝一便のANA&IBEX便機(CRJ700)で福岡へ。上空から見た福岡は仙台よりずっと大都会だと思った。

ちなみに、福岡空港に着いたら最初に聞こえてきたのは韓国語で、福岡市内でも大宰府でも韓国人観光客の多さには驚いてしまった。地理的に見ても近いしね。

予約したホテルはJR博多駅のすぐ近くで、地下鉄空港線で2駅という近さは非常に便利。ホテルに荷物を預けた後は、早速福岡市美術館に向かう。再び空港線に乗って大濠公園へ。

福岡市美術館の建物はなんだか既視感があって、それもそのはず、前川國男設計なのね。私的に東京都美術館と宮城県美術館の両方の面影を感じてしまったのだわ

朝食抜きで福岡に来たので、「ローマ展」を観る前にまずは腹ごしらえということで、山科さんお薦めでもある館内のレストラン「プルヌス」で朝食兼昼食を。窓からの大濠公園の眺めも食事も本当に楽しめました

https://www.kys-newotani.co.jp/hakata/restaurant/museum-restaurant/

ちなみに、大濠公園は中国杭州の西湖をモチーフにしているそうで、向こう岸の白い橋など見ていると、なんとなくそんな気もしてくる広い公園だった。

ちなみに、福岡市美術館「ローマ展」(カラヴァッジョ♪)及び常設展(見応えあり!)の感想は別途書く予定なので、ここでは飛ばしてしまいます

ということで、福岡市美術館で展覧会&常設展をしっかり観た後は近くの「鴻臚館」(遺跡)を訪ねた。閉館時間ぎりぎりで滑り込みセーフ

https://fukuokajyo.com/kourokan/

博多港が昔から大陸や半島との交易拠点だったことがよくわかり、国際的な街並みを形成していたのだろうなぁと想いを馳せてしまった。ちなみに、当時の「鴻臚館」は海に面していたようだが、現在の地形から見ると大分埋め立てされたのだろうね?

「鴻臚館」を出た後は福岡城址に向かった。

https://fukuokajyo.com/about/

天守閣跡は残念ながら工事中で立ち入り禁止になっていたが、それでも歳を顧みず大きな石段をよじ登って近くまで行ったのだった。途中で韓国人青年2人組に「潮見櫓」の場所を(韓国語&スマホで)尋ねられたのだが、残念ながら仙台から来たばかりの観光客なのでわかるはずもありませんってば。その後城址内を散策していたら私も見つけましたけどね。下↓写真は下から見た眺め。

ということで、第一日目は展覧会&常設展の立ちっぱなし鑑賞と福岡城址散策ですっかり疲れ果てたし陽も暮れてきたので、チェックインのためホテルに戻ることにしたのだった。


東京国立博物館「本阿弥光悦の大宇宙」展 サクッと感想(2)

2024-02-12 21:35:09 | 展覧会

展覧会の第2章は「謡本と光悦蒔絵」であった。

所謂「嵯峨本」や「光悦蒔絵」における光悦の関与については定かではないらしい。しかし、多分、光悦風な斬新で雅な謡本や蒔絵が当時の人々の目を惹き、魅了したことは確かな気がする。

下↓は唐草模様の端正な美しさに魅了されてしまう《花唐草文螺鈿経箱》。「経箱」ながら漆黒に螺鈿草文の麗しさが際立つ。

本阿弥光悦《花唐草文螺鈿経箱》(江戸時代 17世紀)本法寺

しかし、光悦の蒔絵と言ったら、やはり展覧会オープニングを飾る《舟橋蒔絵硯箱》が素晴らしい!!

本阿弥光悦《舟橋蒔絵硯箱》(江戸時代 17世紀)東京国立博物館

美術ど素人の感想ではあるが、光悦の《舟橋蒔絵硯箱》を観ていると、高台寺蒔絵とは異なる系譜がここから始まるような気がするのだ。

下↓2作品はいわゆる「光悦蒔絵」。

《舞楽蒔絵硯箱》(江戸時代 17世紀)東京国立博物館

《子日蒔絵棚》(江戸時代 17世紀)東京国立博物館

後の尾形光琳(1658-1716年)、小川破笠(1663-1747年)や原羊遊斎(1769-1846年)の源流に本阿弥光悦の存在があるのだなぁと、(勝手に)しみじみ了解できたのだった。

さて、第2会場に移って、第3章は「光悦の筆線と字姿」だった。

恥ずかしながら私は書がよくわからないのだが(汗)、光悦の書は墨筆線にリズムがあり、その強弱がデザイン的で目に心地よい。

特に、俵屋宗達の下絵に墨蹟が躍る《鶴下絵三十六歌仙和歌巻》なんて、きゃ~っである。鶴の動きと書のリズムに目がシンクロで喜んでしまうのでしたわ

本阿弥光悦 筆・俵屋宗達 下絵《鶴下絵三十六歌仙和歌巻》(江戸時代 17世紀)京都国立博物館

https://www.kyohaku.go.jp/jp/collection/meihin/kinsei/item02/

※ご参考:びじゅチューン!「鶴下ウェイ」

https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=zV1gwR-x52s

ということで、超サクッと感想ですみませぬ(汗)。次回は「光悦茶碗」!


東京国立博物館「本阿弥光悦の大宇宙」展 サクッと感想(1)

2024-02-04 21:08:16 | 展覧会

東京国立博物館「本阿弥光悦の大宇宙」展を観た感想を サクッと書きたい。いやぁ、私的に本当に面白かったのだ

公式サイト:https://koetsu2024.jp/

作品リスト:https://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=2617

オープニングは上↑ポスターでもわかるように《舟橋蒔絵硯箱》だった。本阿弥光悦の斬新な意匠と造形に改めて時代を超越する美の力を感じる。アーテイストとしても凄いし、プロデューサーとしても素晴らしいし、展覧会では多才な本阿弥光悦(1558-1637年)の世界を堪能させてもらった。

 「光悦」印(木製)(年代不詳)

今回、展示の本阿弥家「家系図」を見ると京都の上層町衆が繋がっていて、俵屋宗達とが義兄弟だったり(?)、雁金屋や楽家とも縁戚関係だったり、法華宗を信仰する一族集団(職能集団)を形成していたのが面白い。本阿弥宗家についても、分家の光悦自身についても、初めて知ることが多く勉強になった。

それに、本阿弥家の家職が刀剣類を研いだり鑑定したりする仕事だとは漠然と知ってはいたのだが、「折紙」付きの意味を初めて知り、本阿弥家の鑑定書の威力が如何に大きかったのか、ちょっと驚くほどだった

下↓は「折紙」の裏に捺印した本阿弥宗家の「本」の印影と銅印である。

 

本阿弥本家「本」印影と銅印(安土桃山時代 16世紀)

やはり刀剣類を扱っているので、光悦もさすがに素晴らしい短刀(腰刀)を所持していたようだ。

(上)志津兼氏《 短刀 銘 兼氏(金象嵌 花形見)》(鎌倉~南北朝 14世紀)

(下)《刻鞘変り忍ぶ草 蒔絵合口腰刀》(江戸時代 17世紀)

腰刀は朱塗りに金の蒔絵の忍ぶ草が繊細に施されており、見た目には朱色と言うよりも金色に輝いていた。雅な趣とともに光悦の美意識が偲ばれる《忍ぶ草》でもあった。

図録に「「花形見」の意味」についての佐藤寛介氏の短い論考があった。謡曲の「花筐」は「日本書紀」の継体天皇に取材した狂女ものであり、テーマは想いの成就にあるという。佐藤氏は...

「短刀花形見が謡曲花筐に由来するものならば、それを所持していることで想いがいつか成就することを意味しているのではなだろうか。....傍系の息子が皇位を継承したように、分家の出身であっても本家を継ぐことができるという、心の内の秘めた想いが短刀花形見には込められているように感じられるのである。」(「図録」 P46)

確かに分家の光悦の多才さは本阿弥一門の中でも群を抜いていただろうし、そのような「想い」を持っていたとしてもおかしくないと思う。

しかしながら、腰刀の短刀においては、光悦の義兄弟でもある本阿弥宗家第九代光徳(1556~1619年)が所持していた短刀《銘 備州長船住長重 甲戌》の方が波紋の鮮烈さにおいて、凄い! と思った。本阿弥宗家の実力を見たような気がしたのだ。

長船長重《短刀 銘 備州長船住長重 甲戌》(南北朝 建武元年(1334年))

(次回に続く