国立西洋美術館「クラーナハ展-500年後の誘惑」を観た。私的感想を寄り道しながらサクッと(^^ゞ
今回、ルーカス・クラーナハ(父)(Lucas Cranach der Ältere , 1472 - 1553年)作品がこれほど集まるとは思わなかった。まぁ、版画作品も多かったけど(^^;、確かに「大回顧展」だった。私的にはクラーナハの意外な面も色々と知ることができたし、作品的にも見応えはあったと思う。
クラーナハ(父)《ホロフェルネスの首を持つユディット》(1525/30年頃)ウィーン美術史美術館
今回の目玉作品であるユディットの冷たく妖艶な微笑は観る者を魅了する(500年後の誘惑?)。ユディットの魅力に参ったホロフェルネスが、斬首されても、その半眼が恍惚感を残しているところが凄い!それに、ブダペストの《洗礼者聖ヨハネの首を持つサロメ》(1530年代)の聖ヨハネも同じような恍惚の半眼をしているのだ。もしかして、SMの世界か?(^^;;
これまでクラーナハ作品は多々散見していたが、ドイツの画家としてはデューラーやグリューネヴァルト、アルトドルファーなどの方が好きだったし、クラーナハの俗っぽさが鼻について(スミマセン)、クラーナハ自身についてあまり知ろうとしていなかった。なにしろ、ルターの友人なのにアルブレヒト・フォン・ブランデンブルグの仕事も引き受けるという節操の無さも今風過ぎて...(^^;;
しかし、今回の展覧会でザクセン選帝侯家との強い結びつき、また、肖像画家として優秀だったことなど知ることができ、意外感と共に勉強にもなった。特に興味深かったのは、裸体の女性像量産は宗教改革による宗教画需要の激減に伴う代替商品だったらしく、なるほど!だった。基本的に大工房運営の画家たる者はビジネスに長けているものだ。節操が無くても仕方ないか?(^^;
ちなみに、クラーナハは晩年アウグスブルグでティツィアーノと会ったらしいが、この二人、なんだか似ているところもあるなぁ。二人とも長命であり、期待の後継者(息子)の早世に失意しながらも、大工房を運営し続けたものね。
ところで、私のお気に入りクラーナハ作品の1枚にベルリン国立絵画館《若返りの泉(Der Jungbrunnen)》(1546年)がある。あんなノーテンキな抜け抜けとした絵を描ける画家って素晴らしいと思うし、御年74歳(息子や工房作説もあり)の夢想するリアルな願望は500年後の現代人にもビシバシ通じる(笑)。
なので(反対に)、今回私的に興味深かったのは初期作品であり、特に初期宗教画はウィーン美術史美術館以外からの出展もありで、クラーナハの作風の変遷を知る上でも貴重な機会となった。例えばブダペストの《聖カテリナの殉教》は色々な意味で面白い。
(参考作品):クラーナハ作品に先行するのがデューラーの木版画である。
アルブレヒト・デューラー《聖カタリナの殉教》(1497-98年)
(参考作品):クラーナハはデューラーを引用しながら三連祭壇画として描く。
ルカス・クラーナハ(父)《聖カタリナの殉教》(1506年)アルテ・マイスター(ドレスデン)
この祭壇画形式はフランドル風を想わせる真っ当な宗教画である。左右の聖女たちの衣装がファッショナブルなのは後年作品に通じるようだ。
そして、今回展示されていたブダペスト作品である。
ルカス・クラーナハ(父)《聖カタリナの殉教》(1508/09年)ラーダイ改革派教会(ブダペスト)
この作品は前作に比べ動的表現に富み、聖カタリナの首を斬ろうとしている兵士の悪役風貌などまさにドイツ的である。それなのに、聖カテリナは極めて現代風な美女であり、その肩を露わにする描写などを含め、危うく宗教画を逸脱しそうな劇画的面白さを感じる。原作であるデューラーの生真面目さも霞むほどだよね(笑)。この俗っぽさを謳歌する感覚こそが後年のクラーナハ作品の底流になって行くのだと思ったのだった。
ということで、この続きは前売り券でもう一度観た後で(気が向いたら)書きたいと思う(^^ゞ