今回、久しぶりにヴァチィカンを訪れ、朝から晩まで丸一日楽しんでしまった。博物館の方もすっかりシステム化され、スムーズな対応と午後6時まで開館という、以前とは比較にならないほどの進歩だ。併設のレストランも意外に美味しかったし(笑)。
さて、もちろん入場後は一直線に絵画館を目指し、ラファエッロやカラヴァッジョ《キリストの埋葬》など一通り観た後はシスチィーナ礼拝堂へと続くコースを辿った。このコースはラファエッロの《アテネの学堂》などを見学し、ボルジアの間(アパルタメント・ボルジア)を通ってシスティーナ礼拝堂へと続く。
すっかり改修されたアパルタメント・ボルジアは噂通り現代宗教美術コレクションのギャラリーになっていた。多数の現代アーティストたちの作品が並ぶ。
サルバトーリ・ダリ《受胎告知》
サルバトーリ・ダリ《キリスト磔刑》
展示作品にルオーやシャガール、ダリなどがあるのはわかるが、意外なことにモランディ作品まである。それでも一番驚いたのは、なんとフランシス・ベーコンの《イノケンティウス10世》シリーズの1枚まで展示されていたのだ!だってここはローマ法王のお膝元なのだよ(^^;;
フランシス・ベーコン《イノケンティウス10世》
このボルジアの間で現代宗教画を観ながら、夏に読んだエドガー・ヴィント著「シンボルの修辞学」(晶文社)を想起してしまった。
会社のライブラリーで偶然見つけたもので、表紙がアルテ・ピナコテークのグリューネヴァルトであることが目を惹き、当然借り出して読み始めた。初めはヴィントの小難しいそーで博覧強記的な語り口に読みにくいかなぁと思っていたのだが、これがなかなかに面白くて、最後の章ではゴンブリッチの『アビ・ヴァールブルク伝』への辛辣な書評なんか書いちゃって、ヴィント先生言い過ぎかもと心配するほど(^^;;;
で、何故想起したかと言うと、まず、「プラトン的専制政治とルネサンスの「運命」―フィチーノによる『法律』第四巻709A‐712Aの読解」の章を読んで、マキアヴェッリの『君主論』が当時のネオ・プラトニズム研究から生まれたことが了解でき、私的にチェーザレ・ボルジアが父アレクサンドル6世の逝去時にマラリアに罹らなかったらイタリアはどうなっていただろうか?などとあれこれ想像してしまったからだ(^^;;
それに、「伝統宗教と近代芸術―ルオーとマティス」の章で、近代芸術における宗教画の困難さに言及するとともに、ルオーとマティスの宗教的背景の相違はあっても、抽象化された表現により宗教画として昇華されていると言う(本が手元に無いのでうろ覚えの私的意訳です(^^;;;)ヴィントの話になんだか肯けるものがあったし…。
例えばノーサンプトン・セントマシュー聖堂のグレアム・サザランド《キリスト磔刑》はグリューネヴァルトの《イーゼンハイム祭壇画》に負うものだが、果たして祈りの対象となり得るのか?…とヴィントは言うのよね。その、サザランド作品がこのボルジアのギャラリーにもあって、私もやはり「う~ん…」と唸ってしまったのだ(^^;;
グレアム・サザランド《キリスト磔刑》
確かに現代アーティストが宗教心に訴える宗教画を描くことが難しい時代である。アーティスト側だけでなく信者側も大きく変わっただろうし…。
もちろん、アパルタメント・ボルジアに展示された作品はアーティストにとっての宗教の形であることは非キリスト教徒の私にもわかる。でも、アーティストってやはり自分の芸術の革新性を作品に塗りんでしまうだろうから、よっぽどの宗教心あるいは宗教に対して、信者に対してのリスペクトが無いと伝わり難いというのもあるなぁと感じてしまった。本当に祈りの対象となると難しいだろう...ね。