今年の夏は、とんでもない暑さの上に、追い討ちをかけるようなPCトラブルがあったり、すっかり体力・気力を消耗してしまった。ようやく涼しくなり、芸術の秋もやってきたのでブログもがんばりたいと思う(希望(^^;;;)。
さて、ブログ後無沙汰中で観た展覧会は色々あって(いつもながらokiさんチケットに感謝です!)、特に興味深かった展覧会の感想をサクっと扱って行きたい。
さて、まずは「陰影礼讃」(国立新美術館)から行こう。
独立行政法人国立美術館の発足10周年記念展覧会ということで、5館の美術館協力、すなわち、東京国立近代美術館、京都国立近代美術館、国立西洋美術館、国立国際美術館、の所蔵作品持ち寄りで国立新美術館を会場にしての展覧会だった。ゆえに、テーマ設定や展示構成には苦労があっただろうことは推察されたし、まぁ、至極当然のような「陰影」という大きなテーマに落ち着いたこともわかるような気がする。
<作品構成>
Ⅰ.あるいは陰、そして描写 ■影と陰の諸相 ■実在感の創出
Ⅱ.具体描写の影と陰 ■肖像、または人のいる情景の演出 ■風景表現の構成要素 ■主張する影、自立した影
Ⅲ.カメラが捉えた影と陰
Ⅳ.影と陰を再考する現代 ■概念的な思考 ■同時代の美術から
展覧会については国立新美術館公式サイトの「概要」と「みどころ」を参照してもらいたいが、「時代・地域・ジャンルを横断する多彩な作品が集結」したことによる、作品の展示構成と並べ方が今回の見所とも思われた。企画者側でも最後まで調整したのではないだろうか?出展目録の順序と実際の展示順に若干異なる部分を見つけた。
さて、私的に一番興味深かったのは、まず、Ⅰの「実在感の創出」だった。
目録では、8.クールベ、9.モランディ、10坂本繁二郎、11.速水御舟、12・13.長谷川潔、14.ホルツィウス、15.安井曽太郎、16.小出樽重、17. 安井曽太郎、18.須田国太郎
実際は、8→10→9→11 16→18→17
まずは静物画が並んだ。光と影による実在感のある静物画の成立と言ったらカラヴァッジョだし、その意味でクールベやモランディが並ぶのはうなずくものがある。特に今回展示された国際美術館のモランディ《静物》(1952年)は初めて観る作品だし、さらに興味深かったのはテーブル上の瓶や壷のポーズと位置だった。
並んだ瓶の取手がこちら向きであり、まるで後ろ姿を晒しているかのように見える。更に、丸テーブルに落ちた影が壁との境で消えており、すると瓶や壷はテーブルの端に置いてあるということで、危うさと緊張感を孕んでいる。まるで、カラヴァッジョ《果物籠》や《エマオの晩餐》(ロンドン)を髣髴させる。この後姿の各自の向きと危うさに、まるで人間の集団のように見えてしまったのは何故だろう(^^;
ジョルジョ・モランディ《静物》(1952年)国立国際美術館
今回、左隣に並んだ《林檎と馬鈴薯》(1940年)の坂本繁二郎はモランディを引き合いに出されることが多いが、私的に観るところ、やはり緊張感の存在において少し「ちがう」と思うのだ。美術ド素人のたわごとと恐れずに言わせて貰えば、坂本にはセザンヌが入っているし、モランディにはカラヴァッジョが入っている。
この、左に坂本、右に速水御舟、という並びは面白かったのだったのだが、御舟《秋茄子と黒茶碗》(1921年)も、写実的な陰影という意味でカラヴァッジョなのかもしれない。それに黒茶碗は長次郎の形を受け継ぐ黒樂茶碗だし。ちなみに、私が企画者だったら御舟の隣に岸田劉生を並べたいなぁ。思うに、今回のような企画展は「連歌」「連句」のようなものかもしれない。
さて、Ⅱの「肖像、または人のいる情景の演出」も興味深く観ることができた。ここでは人物画が並ぶ。なにしろ一番初めがフセペ・デ・リベーラ《哲学者クラテース》(1636年)なのだから♪
フセペ・デ・リベーラ《哲学者ソクラテース》(1636年)国立西洋美術館
ちなみに、ここの展示順は目録とかなり違っていた。目録では、19.小出樽重、20、アンリ・マルタン、21.須田国太郎、22.リベーラ、23.中村彜、24・25.岸田劉生、26.浅井忠、27、クールベ
実際は、22→27→26→20→24・25→23→19→21
リベーラ作品は大きいうえに年代的にも古い作品であり、それになんてったって正統派カラヴァッジェスキなので、隣に並べる作品は難しいところだろう。(不確かな記憶だが、図録の順番ではリベーラの次に須田だったかな?) 右隣に小作品ではあるがクールベ《もの思うジプシー女》(1869年)としたところで、カラヴァッジョ的明暗を基盤とした西洋写実主義の系譜になったような気がする。国立西洋美術館では別々の展示室に分かれている作品が隣り合わせになるのも面白い。
ところで、今回の展示作品を観ながら、須田国太郎作品の異色さと難しさが目に付いた。須田は欧州で古典絵画模写をしているが、アウトプットとしての作品は黒色の勝った個性の強い作品である。隣に並べる作品との「調和」が難しい。と美術ド素人は思ったのだった(^^;;;
さて、このパート後半の版画作品にケーテ・コルヴィッツ《農民戦争》より(刃を研ぐ者)(1925)、ジャック・カロ《食卓の聖家族》、ゴヤ《ロス・カプリチョス》が並んでいたが、作品自体が光と影が重要な表現となる版画という共通項だけでなく、3人とも戦争の悲惨さを描いた画家・版画家であることが想起させられ、もしかして隠れ意図が含まれていたのではないか?
などなど、今回の展覧会は「陰影礼讃」というテーマに集った作品を鑑賞しながら、その並べ方もしっかり楽しんだのであった(^^ゞ
さて、ブログ後無沙汰中で観た展覧会は色々あって(いつもながらokiさんチケットに感謝です!)、特に興味深かった展覧会の感想をサクっと扱って行きたい。
さて、まずは「陰影礼讃」(国立新美術館)から行こう。
独立行政法人国立美術館の発足10周年記念展覧会ということで、5館の美術館協力、すなわち、東京国立近代美術館、京都国立近代美術館、国立西洋美術館、国立国際美術館、の所蔵作品持ち寄りで国立新美術館を会場にしての展覧会だった。ゆえに、テーマ設定や展示構成には苦労があっただろうことは推察されたし、まぁ、至極当然のような「陰影」という大きなテーマに落ち着いたこともわかるような気がする。
<作品構成>
Ⅰ.あるいは陰、そして描写 ■影と陰の諸相 ■実在感の創出
Ⅱ.具体描写の影と陰 ■肖像、または人のいる情景の演出 ■風景表現の構成要素 ■主張する影、自立した影
Ⅲ.カメラが捉えた影と陰
Ⅳ.影と陰を再考する現代 ■概念的な思考 ■同時代の美術から
展覧会については国立新美術館公式サイトの「概要」と「みどころ」を参照してもらいたいが、「時代・地域・ジャンルを横断する多彩な作品が集結」したことによる、作品の展示構成と並べ方が今回の見所とも思われた。企画者側でも最後まで調整したのではないだろうか?出展目録の順序と実際の展示順に若干異なる部分を見つけた。
さて、私的に一番興味深かったのは、まず、Ⅰの「実在感の創出」だった。
目録では、8.クールベ、9.モランディ、10坂本繁二郎、11.速水御舟、12・13.長谷川潔、14.ホルツィウス、15.安井曽太郎、16.小出樽重、17. 安井曽太郎、18.須田国太郎
実際は、8→10→9→11 16→18→17
まずは静物画が並んだ。光と影による実在感のある静物画の成立と言ったらカラヴァッジョだし、その意味でクールベやモランディが並ぶのはうなずくものがある。特に今回展示された国際美術館のモランディ《静物》(1952年)は初めて観る作品だし、さらに興味深かったのはテーブル上の瓶や壷のポーズと位置だった。
並んだ瓶の取手がこちら向きであり、まるで後ろ姿を晒しているかのように見える。更に、丸テーブルに落ちた影が壁との境で消えており、すると瓶や壷はテーブルの端に置いてあるということで、危うさと緊張感を孕んでいる。まるで、カラヴァッジョ《果物籠》や《エマオの晩餐》(ロンドン)を髣髴させる。この後姿の各自の向きと危うさに、まるで人間の集団のように見えてしまったのは何故だろう(^^;
ジョルジョ・モランディ《静物》(1952年)国立国際美術館
今回、左隣に並んだ《林檎と馬鈴薯》(1940年)の坂本繁二郎はモランディを引き合いに出されることが多いが、私的に観るところ、やはり緊張感の存在において少し「ちがう」と思うのだ。美術ド素人のたわごとと恐れずに言わせて貰えば、坂本にはセザンヌが入っているし、モランディにはカラヴァッジョが入っている。
この、左に坂本、右に速水御舟、という並びは面白かったのだったのだが、御舟《秋茄子と黒茶碗》(1921年)も、写実的な陰影という意味でカラヴァッジョなのかもしれない。それに黒茶碗は長次郎の形を受け継ぐ黒樂茶碗だし。ちなみに、私が企画者だったら御舟の隣に岸田劉生を並べたいなぁ。思うに、今回のような企画展は「連歌」「連句」のようなものかもしれない。
さて、Ⅱの「肖像、または人のいる情景の演出」も興味深く観ることができた。ここでは人物画が並ぶ。なにしろ一番初めがフセペ・デ・リベーラ《哲学者クラテース》(1636年)なのだから♪
フセペ・デ・リベーラ《哲学者ソクラテース》(1636年)国立西洋美術館
ちなみに、ここの展示順は目録とかなり違っていた。目録では、19.小出樽重、20、アンリ・マルタン、21.須田国太郎、22.リベーラ、23.中村彜、24・25.岸田劉生、26.浅井忠、27、クールベ
実際は、22→27→26→20→24・25→23→19→21
リベーラ作品は大きいうえに年代的にも古い作品であり、それになんてったって正統派カラヴァッジェスキなので、隣に並べる作品は難しいところだろう。(不確かな記憶だが、図録の順番ではリベーラの次に須田だったかな?) 右隣に小作品ではあるがクールベ《もの思うジプシー女》(1869年)としたところで、カラヴァッジョ的明暗を基盤とした西洋写実主義の系譜になったような気がする。国立西洋美術館では別々の展示室に分かれている作品が隣り合わせになるのも面白い。
ところで、今回の展示作品を観ながら、須田国太郎作品の異色さと難しさが目に付いた。須田は欧州で古典絵画模写をしているが、アウトプットとしての作品は黒色の勝った個性の強い作品である。隣に並べる作品との「調和」が難しい。と美術ド素人は思ったのだった(^^;;;
さて、このパート後半の版画作品にケーテ・コルヴィッツ《農民戦争》より(刃を研ぐ者)(1925)、ジャック・カロ《食卓の聖家族》、ゴヤ《ロス・カプリチョス》が並んでいたが、作品自体が光と影が重要な表現となる版画という共通項だけでなく、3人とも戦争の悲惨さを描いた画家・版画家であることが想起させられ、もしかして隠れ意図が含まれていたのではないか?
などなど、今回の展覧会は「陰影礼讃」というテーマに集った作品を鑑賞しながら、その並べ方もしっかり楽しんだのであった(^^ゞ