花耀亭日記

何でもありの気まぐれ日記

加山又造全版画展

2005-06-27 03:16:31 | 展覧会
先々週、日本橋高島屋で「加山又造全版画展」を観た。加山又造が教鞭を取っていた多摩美術大学に資料研究所が発足し、その記念展覧会ということだった。
加山又造を知ったのは去年のRIMPA展で「千羽鶴」を観てである。琳派へのオマージュに満ちた壮大な千羽鶴は荒ぶる波、岩、そして月とともに圧倒的迫力だった。波のうねりを表現する描線には日本画の伝統を観たような気がする。その加山又造が版画にも優れた作品を残したことを知ったのは版画にご造詣の深いレンブラント館さんからだった。今回は加山の版画展というので楽しみに出かけた。

最初からエッチングの的確に流れる線描で描かれた動物たちのインパクトの強さに目が奪われる。描線がまるで鹿や狼の生命力を束ねたようで、「狼」では野生の咆哮さえ聞こえてきそうだった。
メゾチント作品では初期作品の「冬」に惹き込まれてしまった!本当に小さな試作のような作品なのだが、薄暗い画面に細い線描で冬の木立が描かれている。その小さな画面に凝縮された冬の寒さと静けさ…。作品的には完成度は高い「越後雪景色」よりも不思議だがこの小作品に魅了されたのだ。メゾチントと言えば浜口陽三「さくらんぼ」を髣髴させる「3つの苺」の写実表現にも上手いなぁと感嘆してしまった。
ところで、以前、サイトのBBSで、速水御舟の「炎舞」の闇は浜口陽三のメゾチントの闇を髣髴すると書いたことがある。今回の加山のアクアチントとメゾチント「花」は将に御舟「炎舞」へのオマージュかと見紛う作品で、炎と満開の桜が闇に浮かぶ。闇は妖しくもメゾチントの深い闇であった。

加山の版画への情熱はアクアチント、リトグラフ、木版画等にまで及ぶ版画表現全制覇への試みのようにも思える。もちろん、表現したいものを追及した結果だろうが、表現したいものが裸婦だったりすると、その線描への拘りもただならぬもので、特注の面相筆などを使用しているという。しかし、私的には加山の女性美追求にはどうもついて行けなかった(^^;;;。「美」は各人それぞれの美でしかあり得ないのだと思う。しかし、後半になると、あの「千羽鶴」の版画ヴァージョンと言うべき琳派調作品も並び、愛らしい猫作品などにはホッとするものがあった。

今回の加山又造版画展を通して感じたのは、日本画家としての線描への拘りが、版画の線に重なり、より増幅されて行ったのではいか、ということだった。デューラーやションガウアーなどの西洋版画の方が身近だった私には、日本的線描の生きた加山又造の現代版画は非常に面白く、新たに版画の魅力というものに目を開かれた思いだった。

ところで、加山のカラスは心象的自画像のように思えたのだが、どうなのだろう…??

レオノール・フィニ展

2005-06-19 22:38:15 | 展覧会
昔『レオノール・フィニーの仮面』という本をちょっと眺めたことがある。不思議でデコラティヴな仮面が気になり、その作者の名前をずっと記憶していた。そのレオノール・フィニ(1907-1996)の作品展を渋谷東急Bunkamuraで観てきた。

フィニはアルゼンチン生れだが、1歳のころ、横暴な(?)父親から逃げるように母親がフィニを連れて故郷のトリエステに戻った。『母性』という過保護ママ的作品があるから、きっと一人娘のフィニは猫可愛がりされたのではないかと思われる。本当に小猫のようにキュートな美少女で、学校を放校されるほどやんちゃな性格だったようだ。しかし、当時、父親がさらいに来るという不安を抱えていたと本人は語っている。

さて、フィニには美術の才能があったようで、ミラノに出て肖像画家として身を立てる。そのころのお得意様は上流社会のマダムたちだったようで、意外に写実的でエレガントな肖像画を描いている。フィニの作品を観ているとイタリア・ルネサンスの優雅な色彩やフォルムをしっかり吸収しているような気がする。特に魅力的なのは彼女の絵の中で変容する色彩とも言うべき薔薇色の階調!
そうだ、薔薇色と言えばジャン・ジュネの肖像まで展示されていた。ジュネの目は哀しいくらい澄んでいる。

さて、猫好きのフィニは猫の目のように気分も変わる。ミラノではキリコやカルロ・カッラ等と知り合いになり、シュルレアリスムに走る。1930年代にはパリに行き、マンディアルグやエルンスト、アンドレ・ブルトン、アンリ・カルティエ・ブレッソン等と親しく交流するも、その性的自由奔放さからブルトンの怒りを買う事にもなったと云う。多分、当時の社会の中で女性として、画家としてのアイデンティティーを追求するのは並大抵のことではなかっただろうし、結局はナルシズムとう猫的な自己決着に辿り着いたのではないかなぁ、というのが私的感想だった。もちろん、これは一般的公式見解ではないのでお断りしておく。

私がフィニの一番魅力的だと思った作品は、逆毛を立てた自画像であり、『守護者スフィンクス』だったり、彼女自身或いは自己投影した作品だ。なんだか不安な自分をナルシズムに落とし込んでいるのではないか…などと感じてしまう。画面は写実的であり幻想的である。晩年に至るほど、内面的なものが孵化された象徴的作品となって現れている。

戦争後は鉱物の時代と呼ばれる抽象的画風に変わったり、また象徴主義的画風に変わったりと、めまぐるしい。その中で、舞台衣装のデザインや仮面を創作するなど、やはり彼女のセンスは並々ならぬものがあるし、パリ社交界でもカリスマ扱いされるほどアーティストとして素晴らしい働きをしたと思う。しかし思うに、彼女の創った一番素晴らしい作品は、結局レオノール・フィニという仮面を被った芸術家だったのではないか…と思ってしまった。

「茶の湯 名碗」展

2005-06-13 01:24:12 | 展覧会
土曜日、五島美術館「茶の湯 名碗」展を観てきた。最初から迫力の志野茶碗「鬼瓦」や黒織部を並べたのは、さすが名碗展と銘打つだけの自信だからこそと思う。

先週の出光美術館「茶陶の源流展」で茶碗の歴史の面白さに目覚め、今回の五島の展覧会では桃山から江戸初期の名碗ひとつひとつの個性を楽しむことができた。茶道知らずの私にとって実にタイムリーな好企画が続く。今回もド素人の感想文なので、茶道をたしなむ方は大目にに見ていただきたい。

今回の展覧会は茶の湯世界が侘び茶に移った桃山から江戸前期の名碗の数々を展示したものだが、第一章は輸入された茶碗の系譜ということで、唐物・安南・高麗の茶碗が並ぶ。
まず面白かったのは唐物(明時代)の香炉や火入れを茶碗に見立てるという自由な発想により、「侘び」という美意識の柔軟性がわかったこと。要するにセンス勝負だったのね(笑)。それに、今のバリ・エスニックブームのように、当時は安南(ベトナム)茶碗のエスニック調も持て囃されたようだし、案外現代と通じるのではないか…などと思ってしまった(^^;
現代に通じると言えば、高麗茶碗が海外生産方式を取っていたこと!日本からデザイン指定をして朝鮮半島で製作されたという、まさに生産工場を中国やアジア諸国に求めている現代と重なってしまう(笑)。この輸入もの名碗の中で特に気に入ったのは、染みが面白い景色になっている雨漏茶碗「蓑虫」、フォルムも引掻き模様も可愛い金海茶碗「猫掻き」、それに呼継の技法が斬新な意匠に見えた刷毛目茶碗「白波」等々。もちろん展示作品は皆名碗揃いである。

さて、第二章が「光悦と楽家」。さすがと言うか…茶碗の持つ藝術性の醸し出す凄みにたじろいでしまった!「侘び」という美意識の研ぎ澄まされた形と色がそこにあった。利休と長次郎が創り出した楽茶碗の系譜には美意識と精神性が込められている。その後を襲う楽家代々と本阿弥家、そして雁金屋の尾形兄弟…京藝術家集団の家系は華やかで奥が深い。微妙な歪みさえ用の美として計算し尽くされたデザイン性を感じる。光悦の面白さはサントリー美術館の赤楽「朱柿」で私的に完全ブレイクしてしまい、今回、お気に入りの茶碗を選ぶことさえできないほどだ(笑)。

第三章は「京焼と国焼」。江戸時代17世紀中ごろ…京焼に野々村仁清登場!華麗な陶胎色色絵茶碗の作者として高名を得ている…との図録説明あり。今回の白眉は「色絵鱗波文茶碗」ではないだろうか?金と青緑の△鱗波模様の上に白濁釉が掛け流され、更にその上に銅緑釉が掛けられ、偶然の美の妙を楽しむ風情がある。特に碗内に流れ込んだ白濁釉が淡桜色となり、重なる緑釉の滲む様はうっとりとする美しさがある。仁清の茶碗には京の雅さが宿っているように思われる。仁清色絵茶碗は他に「鉄線花文茶碗」「七宝繋文茶碗」が展示されていたが、金と銀の線描が華麗な色絵を盛りたてている。出光の茶壷もだが、仁清はこの金銀の使い方が素晴らしい。ちなみに、この茶碗は飾り用の茶碗かもしれないということだ。ところで、今回、仁清は絢爛たる色絵だけが優れているのではないことを知った。「銹絵水仙文茶碗」の淡い墨絵的な水仙もしみじみとした味わいがあるし、「五角高台茶碗」のミニマムな呉器映しも面白かった。もしかして、これは仁清びいき?

う~ん、なんだか長文になってしまったので、仁清の後になる乾山から後はさくっと飛ばすのでお許しあれ(^^;;;。今回の乾山はあまり好きなものは無かった(恐れ多い?)。唐津が結構良く、特に斑唐津茶碗「山雀」はシンプルな釉薬色と曲線が素敵だと思った。薩摩焼や萩焼の茶碗もあったが、どうやら、五島美術館次回の展覧会はこの地方の国焼を中心とした展覧会になるらしい。これもまた楽しみである。

茶陶の源流

2005-06-06 01:16:15 | 展覧会
出光美術館で「茶陶の源流―和のうつわ誕生」展を観た。久しぶりに面白い企画展に巡り会えたような気がする。
茶陶を今までの中国からの唐物を源流とする視点とは違い、中世京都で作られていた土器(かわらけ)の系譜に連なるものとする。中世王朝の宮廷儀式や饗宴などで使われた飲食用の土器は、ロクロを使わない手づくねであり、桃山時代の楽家代々や江戸初期本阿弥光悦から尾形乾山に至る京都の名工による手づくねの茶陶に引き継がれて行ったのではないかと言う。中世土器や名工による茶陶の数々は、茶道を知らない私にも、なるほど!と思わせるほど十分に面白く勉強になるものだった。

さて、今回の展覧会の圧巻は、なんと言っても野々村仁清・作「色絵芥子文茶壷」であり、同じく芥子の咲き競う狩野宗眼重信・筆「麦・芥子図屏風」だった!
仁清の壷に咲く豪奢な紅芥子と柔らかな筆致の緑の茎葉、金と銀の配置の妙も素晴らしく、いくら眺めても飽きないものがある。そして、今回一番のお気に入り「麦・芥子図屏風」は酒井抱一の特別展示「春夏秋冬草花図屏風(?)」をなにやら吹き飛ばしてしまうほどの新鮮な驚きとなった。右の麦図と左の芥子図、その対比の面白さ、芥子図の鮮やかに咲き揃う可憐な色彩、その観察に基づく装飾性あふれる構図は琳派とは一味違う現代性を感じさせるものがある。こんな作品に巡り会えるから美術館巡りはやめられない(笑)。茶陶の源流を探りながら、素晴らしい美術品に触れられた久々にヒットの展覧会だった♪