花耀亭日記

何でもありの気まぐれ日記

新日曜美術館― 浜口陽三

2007-09-10 02:27:52 | 日本美術
浜口陽三の「くるみ」を手にとって眺めたことがある。メゾチントの闇に静止する一粒の固く皺だらけの胡桃。深く静かな画面に思わず引き込まれるような作品だった。

友人のNさんの亡くなられた父上お気に入りの1枚で、マンション引越の際に実家から形見として持ち出したものとか。弁護士であった父上はこの作品を眺めながらベートーベンを聴いていたそうだ。

今日(昨日?)のNHK「新日曜美術館」で脚本家の山田太一氏が浜口陽三について語っていた。浜口はカラー・メゾチント(銅版画)の開拓者として有名だ。

「浜口の世界は恐ろしいほど自己限定的だ。さまざまな可能性を追求するのが芸術家の業なのに浜口は他の可能性を断念し、銅版の黒い闇の追求に賭ける。それは晩年の小津安二郎の世界に通じる」と。

私もミュゼ浜口陽三・ヤマサコレクションに行ったことがある。メゾチントの深くて暖かく、時に漆黒の闇に、光の点るようにさくらんぼや蝶やレモンが浮かび上がる。「静物画」とはこのことかと思うほど静寂に満ちた世界だ。計算し尽された構図は時を止め、丹念に研ぎ澄まされた造形と質感は淡い光を放ちながら純粋化し、普遍化していく。

山田氏は所蔵している作品をスタジオで紹介してくれた。黄色いレモンが前後に2個。その間に瓶が漆黒のシルエットとして浮かび上がる。ああ、凄いな~!と感心する。レモンの黄色はレモンじゃない、光なのだ。逆光のレンブラントであり、漆黒の虚空のルネ・マグリットなのだ。


(著作権に問題がありましたら削除します)

浜口の凄さに感じ入りながら、やはり自己限定的なイタリア人の画家を想起した。モランディの世界にもなにかしら共通するものがあるのかもしれないね。

補足 : 森村泰昌「美の教室、静聴せよ」

2007-09-02 12:24:02 | 展覧会
下記の森村泰昌「美の教室、静聴せよ」感想文を読み直したら、あまりにも酷い文章なので、ちょこっとばかり補足修正した。まぁ、直したって内容の薄さは変らないのでお恥ずかしい(^^;;;

ところで、常設のコレクション展でも「私との対峙―展開するセルフ・イメージ」という題する展示室があった。

こちらにも森村のクラナッハ「キリストの磔刑」の3ヴァージョン、「セルフポートレート(女優)/ ハラ・セツコとしての私」などが展示されていて興味深かった。セルフポートレート作品は確かに「自在に変幻しうる「わたし」の可能性を示しています。」のだろうけど、「変幻するわたし」はシャーマンのような巫女的なものなのではないだろうか?
あ、もちろん作品というものは緻密な計算に基づいて創作されているんだろうけどね(^^;;;

ちなみに、常設展も結構面白かったし、帰りにランドマークで陳さんの麻婆豆腐も食べたり、なかなかに充実の横浜散策だった(^^ゞ

横浜美術館「森村泰昌―美の教室、静聴せよ」

2007-09-02 03:55:30 | 展覧会
横浜美術館で「森村泰昌―美の教室、静聴せよ」展を観てきた。

森村泰昌と言えば「モナリザ」などの扮装セルフポートレート作品で有名だが、今回は自作を語る「美の教室」ということで、展示も学校の教室に見立てた授業形式になっていた。

ホームルーム
1時間目:フェルメール・ルーム [絵画の国のアリス]
2時間目:ゴッホ・ルーム [釘つき帽子の意味]
3時間目:レンブラント・ルーム [負け犬の価値]
4時間目:モナリザ・ルーム[モナリザのモナリザの、そのまたモナリザ]
5時間目:フリーダ・ルーム [眉とひげ]
6時間目:ゴヤ・ルーム [「笑い」を搭載したミサイルの話]
放課後:ミシマ・ルーム

まず、壁に大きく穴の開いたホームルームの教室へ入室したのだが、何とこれはアンリ・カルティエ=ブレッソンのスペイン作品(拙ブログでも紹介)からの引用で、そんな中でも授業ができるのだと言う。ここで森村出演のビデオを見ながら授業(展覧会)構成のガイダンスを受ける。その後は配られたイヤホーンガイドに従って、各教室での授業進行となる。

森村いわく「真似る」ことは「まねび」であり「まなぶ」に繋がると言う。森村のコスプレは真似て成りきることにより見えてくるものがある、いや見えたものを表現している。要するに絵画実験みたいなものかな?画家が先人の名画を模写しながら学びとるものを、森村はまるで憑依するが如く自らの身体に模写しながら画家作品と自らを一体化する。

例えば、モネの「オランピア」。新古典主義の豊満で理想的な裸婦像とは異なるオランピアの壁女的裸体に森村は少年性を感じる。オランピアに扮した痩せた裸体ポートレートは、もしかして美術史的に語られるヴィーナスの引用ではなく、両性具有のヘロマフロディトスだという新発見かもしれない。

自ら演じることの恍惚感ってあるのかもしれないし、写真化作品と対峙する憑依の客体化は、入れ子構造にも似て迷宮へと続くようにも感じられる。


1時間目では「絵画芸術」の部屋に展示された森村のCG合成ビデオ作品は、まるでフェルメールの絵画空間が「鏡の国のアリス」のような迷宮空間に見えてくる。本当はフェルメールのアトリエ再現による遠近法的アプローチに期待していたのだが、今回は構成小道具の一部の展示に留まっていたのが少し残念だった。

 

2時間目は耳削ぎ事件直後のゴッホ自画像の毛皮帽の形がまるで「釘つき帽子」のようで、キリストの荊冠を重ね合わせているのではないかという指摘!さすが!実に鋭い観察眼だと思う。

3時間目のレンブラントはやはり私的に一番興味深かった。初期の後ろからの逆光による自画像から始まり、その変遷を辿りながら、最晩年の負け犬になったレンブラントの自画像が一番深い人間性を感じさせる作品になっていると説く。レンブラントの表情研究の自画像銅版画に重ねた森村セルフポートレートは、その迫真の真似に凄みさえ感じてしまった。

4時間目の「モナリザ」は観客サービスで、顔部分をくりぬいたモナリザ・ボードから顔を覗かせ、向かいにある鏡でモナリザに扮した自分を見ることができる。私の前の女性は彼氏に写真を何枚も撮ってもらっていた。う~ん、なりきっていたのかなぁ?(^^;。で、凝っていたのはその鏡には「鏡文字」が書かれていたこと!もちろん日本語だけど(笑)

5時間目はフリーダ・カーロの自画像で、彼女の太い眉は実は髭なのだと発見した森村に拍手!「眉=髭」は自意識の象徴なんじゃないかなぁ?事故による身体的苦痛のなかで彼女を支えているぼろぼろの柱の代わりに森村は自分の手を描く。きっと、その手は画家の手であるということなんだと思った。森村のフリーダへの感情移入が伝わってくる。もちろん好きじゃなければ扮装なんてできっこないんだよね。

6時間目はゴヤの「ロス・カプリチョス」を中心に。戦争やけんかで相手に暴力を振るう代わりに、相手を笑わせてしまった方が勝ちなのではないかとの意見。う~ん、殺気立った人たちが笑ってくれれば良いのだけど…。

各教室にはこの他にセザンヌの林檎やベラスケスのマルガリータ王女、ブリューゲル「盲人の転落」やマネの「オランピア」(かなりの意欲作!)なども展示されていたが、森村の風刺とユーモアにニヤリとしてしまう作品ばかりだった。

で、放課後のミシマ・ルーム。市谷のミシマに扮し「静聴せよ」と芸術について熱弁をふるうのだが、誰も聴いていないという自虐的アイロニー。でも、大丈夫。森村泰昌の芸術への想いとユーモアはしっかりと観客に伝わったのだから(^^;;