横浜美術館で「
森村泰昌―美の教室、静聴せよ」展を観てきた。
森村泰昌と言えば「モナリザ」などの扮装セルフポートレート作品で有名だが、今回は自作を語る「美の教室」ということで、展示も学校の教室に見立てた授業形式になっていた。
ホームルーム
1時間目:フェルメール・ルーム [絵画の国のアリス]
2時間目:ゴッホ・ルーム [釘つき帽子の意味]
3時間目:レンブラント・ルーム [負け犬の価値]
4時間目:モナリザ・ルーム[モナリザのモナリザの、そのまたモナリザ]
5時間目:フリーダ・ルーム [眉とひげ]
6時間目:ゴヤ・ルーム [「笑い」を搭載したミサイルの話]
放課後:ミシマ・ルーム
まず、壁に大きく穴の開いたホームルームの教室へ入室したのだが、何とこれはアンリ・カルティエ=ブレッソンのスペイン作品(拙ブログでも紹介)からの引用で、そんな中でも授業ができるのだと言う。ここで森村出演のビデオを見ながら授業(展覧会)構成のガイダンスを受ける。その後は配られたイヤホーンガイドに従って、各教室での授業進行となる。
森村いわく「真似る」ことは「まねび」であり「まなぶ」に繋がると言う。森村のコスプレは真似て成りきることにより見えてくるものがある、いや見えたものを表現している。要するに絵画実験みたいなものかな?画家が先人の名画を模写しながら学びとるものを、森村はまるで憑依するが如く自らの身体に模写しながら画家作品と自らを一体化する。
例えば、モネの「オランピア」。新古典主義の豊満で理想的な裸婦像とは異なるオランピアの壁女的裸体に森村は少年性を感じる。オランピアに扮した痩せた裸体ポートレートは、もしかして美術史的に語られるヴィーナスの引用ではなく、両性具有のヘロマフロディトスだという新発見かもしれない。
自ら演じることの恍惚感ってあるのかもしれないし、写真化作品と対峙する憑依の客体化は、入れ子構造にも似て迷宮へと続くようにも感じられる。
1時間目では「絵画芸術」の部屋に展示された森村のCG合成ビデオ作品は、まるでフェルメールの絵画空間が「鏡の国のアリス」のような迷宮空間に見えてくる。本当はフェルメールのアトリエ再現による遠近法的アプローチに期待していたのだが、今回は構成小道具の一部の展示に留まっていたのが少し残念だった。
2時間目は耳削ぎ事件直後のゴッホ自画像の毛皮帽の形がまるで「釘つき帽子」のようで、キリストの荊冠を重ね合わせているのではないかという指摘!さすが!実に鋭い観察眼だと思う。
3時間目のレンブラントはやはり私的に一番興味深かった。初期の後ろからの逆光による自画像から始まり、その変遷を辿りながら、最晩年の負け犬になったレンブラントの自画像が一番深い人間性を感じさせる作品になっていると説く。レンブラントの表情研究の自画像銅版画に重ねた森村セルフポートレートは、その迫真の真似に凄みさえ感じてしまった。
4時間目の「モナリザ」は観客サービスで、顔部分をくりぬいたモナリザ・ボードから顔を覗かせ、向かいにある鏡でモナリザに扮した自分を見ることができる。私の前の女性は彼氏に写真を何枚も撮ってもらっていた。う~ん、なりきっていたのかなぁ?(^^;。で、凝っていたのはその鏡には「鏡文字」が書かれていたこと!もちろん日本語だけど(笑)
5時間目はフリーダ・カーロの自画像で、彼女の太い眉は実は髭なのだと発見した森村に拍手!「眉=髭」は自意識の象徴なんじゃないかなぁ?事故による身体的苦痛のなかで彼女を支えているぼろぼろの柱の代わりに森村は自分の手を描く。きっと、その手は画家の手であるということなんだと思った。森村のフリーダへの感情移入が伝わってくる。もちろん好きじゃなければ扮装なんてできっこないんだよね。
6時間目はゴヤの「ロス・カプリチョス」を中心に。戦争やけんかで相手に暴力を振るう代わりに、相手を笑わせてしまった方が勝ちなのではないかとの意見。う~ん、殺気立った人たちが笑ってくれれば良いのだけど…。
各教室にはこの他にセザンヌの林檎やベラスケスのマルガリータ王女、ブリューゲル「盲人の転落」やマネの「オランピア」(かなりの意欲作!)なども展示されていたが、森村の風刺とユーモアにニヤリとしてしまう作品ばかりだった。
で、放課後のミシマ・ルーム。市谷のミシマに扮し「静聴せよ」と芸術について熱弁をふるうのだが、誰も聴いていないという自虐的アイロニー。でも、大丈夫。森村泰昌の芸術への想いとユーモアはしっかりと観客に伝わったのだから(^^;;