山梨県立美術館《夜の画家たち》展の「出品リスト」を参考用にリンクしておく。→こちら
小林清親や川瀬巴水などの版画を観ていると、明治以降の近代化への急速な歩みとともに、江戸情緒の名残がそこはかとなく垣間見られることが嬉しい。おぼろ月夜に照らされた川辺や、ガス灯が灯り始めた街の風情は、なにやら郷愁をかきたてるものがある。多分、昼間の雑踏や喧騒が、夕暮れから夜へと移ろう闇の中に静かに沈んでいくからなのだろう。その間(あわい)こそが版画家としての感性の見せどころとなったのだと思う。

小林清親《大川岸一之橋遠景》(1880年)がす資料館

小林清親《新橋ステイション》(1881年)がす資料館

川瀬巴水《大宮見沼川》(1930年)平木浮世絵財団
さて、今回の展覧会で特に興味深かったのは、第5章「近代画家たちとバロックの闇」であり、そこに展示されていた満谷国四郎《戦の話》を観て、カラヴァッジョ偏愛として本当に驚いてしまった!!(・・;)
先ずは、参考としての画像を...カラヴァッジョ《聖マタイの招命》。

カラヴァッジョ《聖マタイの招命》(1600年)サン・ルイジ・デイ・フランチェージ聖堂(ローマ)
今回の展覧会に展示された満谷国四郎《戦の話》。

満谷国四郎《戦の話》(1906年)倉敷市立美術館
時代的に日露戦争に参戦した軍人の話を聞いている人々(家族)を描いているものだと思われる。が、画面を詳細に観ると、向かって右からの光は話し手の軍人の背後の障子窓から斜めに差し込み、その顔は逆光によりキリストと同じように半ば影に沈む。更に、聞き手の家族の構図やポーズも注意深く見ると、《聖マタイの招命》の人物たちに似ており、どうしても《聖マタイの招命》を髣髴とさせるのだ!!
正面の男の身を乗り出す身振りは、羽飾りの帽子を被った若者(マリオ・ミンニーティがモデル)のポーズに似ており、女性たちの身のこなしは後ろ向きの羽飾り帽子の男を想起させる。左奥に位置する老人に抱かれ(話に飽き)寝入る孫娘は、お金を数えている若い男の俯くポーズに通じる。老人は眼鏡をかけ髭を蓄え、まるで《聖マタイの招命》の左3人を合体させたような造形と佇まいではないか?!
満谷 国四郎(みつたに くにしろう、1874年- 1936年)は日本の洋画家であり、五姓田芳柳、小山正太郎の門に学ぶ。1900年アメリカ経由でフランスへ渡り、ジャン・ポール・ローランスの門に学び1902年帰国。アカデミックで写実主義的な画風の作品を描く。この頃描いたのが《戦の話》だ。
写実描写の頃の《車夫の家族》。幼児を抱く母親は聖母子像を想起させ、子供の足裏の汚れはカラヴァッジョを想起する。《ロレートの聖母》とは言わないまでも...。

満谷 国四郎《車夫の家族》(1908年)東京藝術大学大学美術館
1911年大原孫三郎の援助で再度渡欧、パリで初歩からデッサンに取り組み勉強した。新しい研究成果を身につけて1912年に帰朝、後期印象派などの影響により、幾分象徴主義的な画風へと転じた。
後期印象派の影響が見える《椅子による裸婦》。

満谷 国四郎《椅子による裸婦》(1912年)東京国立近代美術館
平泉氏の講演会でも満谷の《戦の話》は「カラヴァッジョ研究者の間でも話題になった絵」として紹介されたのだが、私的にも、宜なるかな!と激しく頷いてしまったのだった。
《戦の話》が描かれた1908年当時、まだカラヴァッジョ再評価の動きは始まっていない。更に満谷がカラヴァッジョ作品を観たという実証的証拠も無い。しかし、現に《戦の話》にはカラヴァッジョ作品からの影響としか思われない痕跡が満ち満ちている。
某大学の美術史の先生がおっしゃっていた。「画家は本当に凄いと思っているものには口をつぐむ。しかし、言わないけれども<形>にあらわれているものだ。」と…。
ということで、次回も高島野十郎や須田国太郎も登場する「近代画家たちとバロックの闇」の続きをば…。
小林清親や川瀬巴水などの版画を観ていると、明治以降の近代化への急速な歩みとともに、江戸情緒の名残がそこはかとなく垣間見られることが嬉しい。おぼろ月夜に照らされた川辺や、ガス灯が灯り始めた街の風情は、なにやら郷愁をかきたてるものがある。多分、昼間の雑踏や喧騒が、夕暮れから夜へと移ろう闇の中に静かに沈んでいくからなのだろう。その間(あわい)こそが版画家としての感性の見せどころとなったのだと思う。

小林清親《大川岸一之橋遠景》(1880年)がす資料館

小林清親《新橋ステイション》(1881年)がす資料館

川瀬巴水《大宮見沼川》(1930年)平木浮世絵財団
さて、今回の展覧会で特に興味深かったのは、第5章「近代画家たちとバロックの闇」であり、そこに展示されていた満谷国四郎《戦の話》を観て、カラヴァッジョ偏愛として本当に驚いてしまった!!(・・;)
先ずは、参考としての画像を...カラヴァッジョ《聖マタイの招命》。

カラヴァッジョ《聖マタイの招命》(1600年)サン・ルイジ・デイ・フランチェージ聖堂(ローマ)
今回の展覧会に展示された満谷国四郎《戦の話》。

満谷国四郎《戦の話》(1906年)倉敷市立美術館
時代的に日露戦争に参戦した軍人の話を聞いている人々(家族)を描いているものだと思われる。が、画面を詳細に観ると、向かって右からの光は話し手の軍人の背後の障子窓から斜めに差し込み、その顔は逆光によりキリストと同じように半ば影に沈む。更に、聞き手の家族の構図やポーズも注意深く見ると、《聖マタイの招命》の人物たちに似ており、どうしても《聖マタイの招命》を髣髴とさせるのだ!!
正面の男の身を乗り出す身振りは、羽飾りの帽子を被った若者(マリオ・ミンニーティがモデル)のポーズに似ており、女性たちの身のこなしは後ろ向きの羽飾り帽子の男を想起させる。左奥に位置する老人に抱かれ(話に飽き)寝入る孫娘は、お金を数えている若い男の俯くポーズに通じる。老人は眼鏡をかけ髭を蓄え、まるで《聖マタイの招命》の左3人を合体させたような造形と佇まいではないか?!
満谷 国四郎(みつたに くにしろう、1874年- 1936年)は日本の洋画家であり、五姓田芳柳、小山正太郎の門に学ぶ。1900年アメリカ経由でフランスへ渡り、ジャン・ポール・ローランスの門に学び1902年帰国。アカデミックで写実主義的な画風の作品を描く。この頃描いたのが《戦の話》だ。
写実描写の頃の《車夫の家族》。幼児を抱く母親は聖母子像を想起させ、子供の足裏の汚れはカラヴァッジョを想起する。《ロレートの聖母》とは言わないまでも...。

満谷 国四郎《車夫の家族》(1908年)東京藝術大学大学美術館
1911年大原孫三郎の援助で再度渡欧、パリで初歩からデッサンに取り組み勉強した。新しい研究成果を身につけて1912年に帰朝、後期印象派などの影響により、幾分象徴主義的な画風へと転じた。
後期印象派の影響が見える《椅子による裸婦》。

満谷 国四郎《椅子による裸婦》(1912年)東京国立近代美術館
平泉氏の講演会でも満谷の《戦の話》は「カラヴァッジョ研究者の間でも話題になった絵」として紹介されたのだが、私的にも、宜なるかな!と激しく頷いてしまったのだった。
《戦の話》が描かれた1908年当時、まだカラヴァッジョ再評価の動きは始まっていない。更に満谷がカラヴァッジョ作品を観たという実証的証拠も無い。しかし、現に《戦の話》にはカラヴァッジョ作品からの影響としか思われない痕跡が満ち満ちている。
某大学の美術史の先生がおっしゃっていた。「画家は本当に凄いと思っているものには口をつぐむ。しかし、言わないけれども<形>にあらわれているものだ。」と…。
ということで、次回も高島野十郎や須田国太郎も登場する「近代画家たちとバロックの闇」の続きをば…。