庭戸を出でずして(Nature seldom hurries)

日々の出来事や思いつきを書き連ねています。訳文は基本的に管理人の拙訳。好みの選択は記事カテゴリーからどうぞ。

あられ雪

2007-02-02 22:38:51 | 自然
今日はこの冬初めて雪が積もった・・・といってもほんの数十分。しかも昼間のにわか雪的あられ雪。しかし、事務所の周囲の家々の屋根は、つかの間の白い化粧に輝いた。

上空に局地的でかなり強力な寒気が入ったらしい。午後2時過ぎか、ちょっとウトウトしていたら急に夕暮れ時のように周囲が暗くなり、バタバタとガレージを叩きながら大粒の雪あられが降り出した。それが間もなく霙(みぞれ)に転じ冷たい雨に変わって、1時間ほどでまた青空に戻るという、ちょっと忙しい空模様だった。

私は生来こういう気象の転変は好きな方で、台風や雷光などが好きなことはどこかに書いた。年中変化の乏しい単調な天気より、何かしら変化することが、自然を生きている、より身近なものと感じさせ、さらに小さな自分の意図に関係なく変化してやまない自然の運行に、畏浮キべき大きさを感じ取っているからなのかもしれない。
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自然の属性

2007-02-02 15:26:00 | 創作
私の好むところは、硬直性よりも柔軟性、固着性よりも流動性、単一性よりも多様性、権力性よりも自律性、排他性よりも寛容性、閉鎖性よりも開放性・・・である。そしてこれら全ては自然の属性である。
♀ー太郎

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土民生活5・6

2007-02-02 09:22:00 | 自然


大地を離れて、私たちはどうして生きることができるのか。大地を離れて、私たちはどこに食を求めるのか。大地は私たちに与えるべき全てを生み出す。私がフランスのドルドーニで土民生活を営んでいたとき、1917年5月5日の日記に次のように書いた。
「芽が生えた。昨夕まで地の一面に一点の緑も見えなかったのに、今朝は緑の芽が一面に地からはじけ出ている。右はインゲン左はエンドウ、なんという勢いだろう!意気天を突くというのは、ほんとに今の彼らのことである」。
「芽がわずかに生えた。人が眠っている間に、地面を突破して現れた。あの新鮮な大気を呼吸する前に!種子(たね)は私が蒔(ま)いたのだ。インゲンには肥料をうんと置いてやった。二週間前に蒔いたのが今日生えたのだ。蒔いた私は芽の生えるのが待ち遠しかった。あの元気ある萌芽を見るといまさら希望に満たされる」。
「昨日はばかに暑かった。木も草も芽も種も枯れ果てるであろうと心配した。種子は地下にあってさだめしもがいていたであろう。けれども暑い日の夜には露が降りる。そうだ、昨夜の露、あの無声の露が、地を潤(うるお)して、柔らかにしてくれたので、幼い芽は自らを伸ばすことができたのだ」。
「昨日の日光の暑さは、実にタイラント(暴君)の暴政のごとく我々を苦しめた。やわらかい種子も地価でもがいたに違いない。しかし、あのタイラント(暴君)は返って若い種に活動の元気を与えた。夜露の降りたのも、実にあのタイラント(暴君)のお陰である。昨日はあのタイラント(暴君)の烈暑のために枯れ果てるであろうと思われた種が、今朝は大いなる希望に満ちて萌え出でている。ミラクル(奇跡)のようだ。しかし、これが自然だ」。
「種がなければ芽は生えない、蒔いた種は時を得て生える。花を愛し実を願うものは、まず種を蒔かなければならない。恐るべきタイラント(暴君)も返って地層突破の動機であることを思えば、不幸の間にも希望がある。恐浮フ間にも度胸が座る。種を蒔くものは幸いだ」。
 そうだ、種を蒔くものは幸福である。大地は私たちに生活を与えるべく、私たちに労作を要求する。大地は私たち自身であることを忘れてはならない。



 大地は私たちに生活を与えるばかりでなく、私たちの心を美しく育てる。1917年4月26日の日記に、私は次のように書いている。
「マーガレットの小さな花が一面に咲いている。清らかな、純白の野菊に似た無数のマーガレットは、柔らかい青芝生の広い庭一面に浮織(うきおり)のように咲きそろっている。私は今、その自然の美しい生きたカーペットの上に身を横たえて、しばし休息している」。
「幼い緑の草の葉は、時々微風にそよいで、かすかにささやくことさえあるが、マーガレットはいつも静かに深い沈黙に耽(ふけ)っている。その小さな清らかな、謙遜な顔を上げて、高い大空と何かしら、無言で内緒の話をしている。空には一点の雲もない。色彩を好む私たちには頼りないほど澄み渡っている。あの際限のない大空に対して、あの細やかなマーガレットは何を話しているのだろう」。
「マーガレットの沈黙の深いこと!彼女の顔は太陽の光を受けて輝いている。無数の姉妹がいっせいに輝いている。天の星が太陽の光に覆われている間、彼らは地上の星のように光り輝いている。大空が深いように、彼らの沈黙の深いこと!その美しい沈黙!その美しい輝き!マーガレットは大地の子である。謙遜なる大地の子である」。

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土民生活3・4

2007-02-02 08:36:00 | 自然


 国民共同生活の安全と独立と自由とを維持するために軍隊は作られたものである。それが、隣国の同胞の共同生活の安全と独立と自由とを破壊するために用いられる。個人と個人との間の、地方と地方との間の、国民と国民の間の、物資の有無を融通し、需要と供給とを調和するために商業は行われるべきである。それが、その有無の融通を妨害し、供給を独り占めするために行われる。暴力の横行を防いで国民の自由、安全を守るために設けられた警察は、自らの暴力を用いて国民の平和的自由を暴圧する。国民の熱望と熟慮によって選択されるべきはずの政治家は、自ら詐欺、脅迫、誘惑の「選挙運動」をあえてして省みない。政府も、学校も、工場も、賭博場も、売春宿も、教会も、寺院も、ことごとくこれ自らの幻影を追って作り上げた造営物にすぎない。かくして偉大なる近代的バベルの塔は科学と工学の知識を傾けて築かれた。



 人間は自ら建てたバベルの塔によじ登るために競い苦しむ。しかしその塔は私たち自らの影である。幻影である。私たちが疲れ果てて大地の上に唐黷驍ニき、私たち自身の影もまた自ら消滅し去る。幻滅の悲劇とはすなわちこれである。私たちは生まれながらにして無明の欲を持っている。身を養うための食物を過度に取って、私たちは返ってその胃を損(そこ)なう。徳に伴うべき名声を願って、私たちは返って我が得を損なう。美しさを誇(ほこ)るより醜いものは無いであろう。無明の欲を追って、私たち自身の影を追って生きるものは、幻滅の悲劇を見なければならない。
 そもそも私たちは大地の子である。私たちは大地から離れ得ないものである。大地の回転と共に回転し、大地の運行と共に太陽の周囲を運行し、また、太陽系そのものの運行と共に運行する。私たちの智恵はこの大地を耕して得たものでなくてはならない。私たちの幸福はこの大地を耕すことにあらなければならない。私たちの生活は大地より出て、大地を耕し、大地に還(かえ)る、これだけである。これを土民生活と言う。真の意味のデモクラシーである。大地は私たち自身である。

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