碓井広義ブログ

<メディア文化評論家の時評的日録> 
見たり、読んだり、書いたり、時々考えてみたり・・・

没後13年 稀代のプロデューサー「萩元晴彦」小伝 第2回

2014年09月18日 | 「ヤフー!ニュース」連載中のコラム
Kapalua,Maui,2014


9月4日は萩元晴彦さんの命日でした。1930年、長野県生まれ。早稲田大学文学部露文科卒。ラジオ東京(現在のTBSテレビ)に入社し、ラジオそしてテレビ番組の制作に携わります。

やがて1970年に仲間と共に日本初の番組制作会社テレビマンユニオンを創立。数々のプロデュースを行っていきます。その仕事はテレビの枠を超え、幅広い文化の創造に寄与するものでした。

亡くなったのは2001年、享年71。

没後13年を機に、プロデューサー萩元晴彦の軌跡をふり返り、そして次代に伝えたいと思います。


没後13年 
稀代のプロデューサー「萩元晴彦」小伝 
第2回


テレビの可能性を拡げる

「萩元さん、ひとつ仕事をお願いできますか?」―そう声をかけてきたのは読売テレビ東京支社長(当時)の中野曠三である。場所は銀座のバー。70年2月の創立から間もないころの話だ。

当時、ディスカバー・ジャパンというキャンペーンを展開しようとしていた国鉄をスポンサーに、旅番組をやりたいというのだ。中野は萩元の飲み友達だが、『巨人の星』『細腕繁盛記』などを手がけた辣腕営業マンでもあった。

「お話を承ります」と言って、ノートを拡げて身構えた萩元。それが現在も放送中の『遠くへ行きたい』が生まれた瞬間だった。

萩元は、この番組を、名所旧跡を巡る単なる観光PR番組にはしなかった。旅のドキュメンタリーとしたのである。演出の今野勉によれば、「移動する旅人を撮ることであり、旅人と旅先で出会った人との会話を撮(録)る」番組だった。まだ小型ビデオカメラがない時代で、ロケは16ミリフィルムカメラで行われた。

放送開始からの半年間、番組は旅をする永六輔を追い続けた。その後、五木寛之、野坂昭如などの作家や文化人が続々登場し、予定調和とはほど遠い異色のドキュメンタリーとして評判になる。

やがて、渡辺文雄、藤田弓子といった旅巧者のレギュラー陣も視聴者の間に浸透し、その後40年以上も続くことになる長寿番組の基礎が固まっていった。

新たなクラシック番組の開拓

『遠くへ行きたい』がスタートしてから2年後、1972(昭和47)年に、萩元は新たなレギュラー番組のプロモートに成功する。電々公社(現NTT)をスポンサーとする『オーケストラがやって来た』である。

NHKはともかく、民放ではクラシック番組の数は少ない。しかも、ほとんどがコンサートの中継録画だ。そんな中で、日本各地に本物のオーケストラがやって来て、クラシックの楽しさをやさしく伝えてくれる公開音楽番組は画期的なことだった。

この時、萩元が掲げたプロデュース方針は「一流の演奏家に良い演奏とわかりやすい話を」である。事実、小澤征爾、アイザック・スターンをはじめクラシック界の巨星たちが、相次いでこの番組に登場した。

そしてもう一つ大事なことは、萩元が、五嶋みどり、相沢吏江子など後にクラシック界をリードしていくことになる多くの新星たちを、この番組で紹介し応援していったことだ。

『オーケストラがやって来た』は、1983(昭和58)年まで11年間、544回も続き、萩元の代表作の一つとなった。

音楽への尊敬と愛情は、野球へのそれと共に、萩元の重要なDNAだ。『オーケストラがやって来た』以外にも、何本もの優れたクラシックスペシャルを創り上げている。

1978(昭和53)年に『北京にブラームスが流れた日~小澤征爾・原点へのタクト~』、1981(昭和56)年にはTBS創立30周年記念特別番組として、5夜連続の『カラヤンとベルリンフィルのすべて』を制作した。

特にベルリンフィルについては、その組織形態と運営方針を、テレビマンユニオンを創立する際、大いに参考にしたと萩元は語っている。

一人一人がソロ活動を出来るほどに力を持つメンバーの集団。ゆるやかな連帯と自己責任。テレビマンユニオンの目指すところを体現している先達として、ベルリンフィルを尊敬していたのだ。

また、小澤征爾や今井信子をはじめ、数え切れないほど多くの才能を育てたのが桐朋学園の斉藤秀雄だ。1984(昭和59)年に、斉藤のかつての教え子たちが集まり、記念コンサートを行うことになった。後年、「サイトウキネン・オーケストラ」として発展していく活動の第1回目である。

萩元は演出に実相寺昭雄監督を起用し、精鋭たちが世界各地から母校に帰ってくる瞬間から練習風景、小澤征爾へのインタビュー、そして聴く者の魂も震えるような本番での至高の演奏までを、全てカメラに収めた。

スペシャル番組『先生!聞いてください~斎藤秀雄メモリアルコンサート』の制作は、後に萩元がテレビプロデューサーという枠を超え、一人の「音楽プロデューサー」として歩み始める転機となった。

(以下第3回に続く 文中敬称略)


4年生のための臨時ゼミ、再び

2014年09月18日 | 大学

先週来られなかった4年生メンバーのために、再度、臨時ゼミを開きました。

卒論の現状を見ながら、それぞれにアドバイス。

間もなく夏休みも終了しますが、秋学期が始まれば、卒論の提出まで、あっという間の一気です(笑)。



週刊新潮でコメントした、「朝日新聞」問題に関する特集記事

2014年09月18日 | メディアでのコメント・論評


コメントした、週刊新潮の「朝日新聞」問題の特集記事が、新潮社のサイトにアップされました。

先日、このブログで一部を紹介しましたが、全文が読めるようになったので、以下に転載しておきます。


「売国」「誤報」は黒塗り「ペテン」はOK
「広告審査」のデタラメ
続・おごる「朝日」は久しからず

載せたり、載せなかったり、塗りつぶしたり。本誌の広告掲載について、朝日新聞の対応は支離滅裂と言うほかない。納得しうる基準をまったく示せないまま、場当たりで恣意的に対応し、後からご都合主義で理屈をくっつける。まるで広告審査の体をなしていないのだ。

*********

池上問題についての“釈明”記事を掲載する前日の9月5日夕のこと、

「編集局長室に編成局長や報道局長らが集まり、経緯掲載記事を“1面に載せるべきだ”“池上さんと話し合う前に載せるべきではない”などと意見が交わされ、かなり揉めていました」

と言うのは朝日の幹部社員。さらに若手社員も、

「その晩、現場のデスクやキャップが、いちど決まった“釈明原稿”では説明が不十分だと編集幹部に詰め寄り、騒然となりました」

と証言するが、広告をめぐる対応も同様である。

朝日は本誌9月4日号の広告を、〈部数がドーン!〉など2カ所の表現が問題だとして掲載拒否した。一方、9月11日号に対しては、「売国」「誤報」という文言に抗議しつつも、最終的には掲載した。迷走し、審査基準を見失っていると思しき対応だが、加えて、「売国」「誤報」の2語を勝手に塗りつぶしたのである。

さらに言うなら、8月28日号の広告は、「ペテン」という語に朝日は強く抗議しながら、そのまま掲載した。しかし、どうして「売国」や「誤報」はダメで「ペテン」はよいのか、一切明かされないのだ。労組に寄せられた声を拾ってみると、

〈個人情報保護法の情報統制・言論弾圧を批判しながら、意見が違うといって掲載を断る社の姿勢には、一般の読者にとって説得力など無いでしょう〉(広告・30代男性)

〈自分たちに都合の悪い意見を聞かない、載せない。これでリベラルな新聞と言えるのでしょうか〉(編集・30代女性)

これらは“池上問題”への批判だが、“広告審査”にもそのまま当てはまるだろう。上智大学の碓井広義教授(メディア論)も言う。

「新潮の広告の塗りつぶしは、言論弾圧が激しかったころの検閲や墨塗り教科書をイメージしてしまう。言論で仕事をしている会社が、自分の利益を守ろうとして言論を抹殺することに危機感を覚えます。広告も表現であり文化の一端を担っている。その情報が遮断されれば読者にとっても不利益になるし、言論機関ならば広告はそのまま載せ、記事の内容に反論があるならそれを具体的に示し、読者の判断にゆだねるべきです」


■「元に戻す努力を…」

ほかにも、朝日の対応がチグハグな例をひとつ。

「菅官房長官は国連人権委員会のクマラスワミ報告に“朝日の報道が影響した”と明言した。これまでの朝日ならすぐに反応し、全社あげて批判するのに、何も語っていない。朝日は自分に不利だとダンマリを決め込んでしまう。日和見なのです」(京都大学名誉教授の中西輝政氏)

何から何まで支離滅裂で制御が利かない朝日新聞が、再生する道はあるのか。

「第三者による調査委員会を作り、どういう経緯で誤報が掲載され、責任者は誰なのかを明らかにすべきでしょう。そうしないと、いつまでたっても火だるま状態から抜けられない」

と、元朝日新聞常務の青山昌史氏は言うが、それだけでは収まらない。アメリカ人弁護士のケント・ギルバート氏が訴える。

「慰安婦の強制連行は国連人権委員会やアメリカの議員をはじめ、国際的に信じられています。朝日新聞は自分が広げたそういう被害を、元に戻す努力をする必要があります。まずは“国連関係者各位”とか“韓国のみなさまヘ”と書いた英語や韓国語の謝罪文を、見開きで掲載すべきです」

信頼回復への道のりはあまりに遠い。

(「特集 続・おごる『朝日』は久しからず」より
 「週刊新潮」2014年9月18日菊咲月増大号)

大学院の9月入試

2014年09月18日 | 大学

四谷キャンパスで、大学院の9月入試。

おかげさまで、国内外から、たくさんの受験生が参加してくれました。

筆記試験、そして面接試験と、緊張の時間の連続。

受験生の皆さん、おつかれさまでした。



試験会場へと向かう先生方