碓井広義ブログ

<メディア文化評論家の時評的日録> 
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俳優・長谷川博己『麒麟がくる』主演獲得まで

2020年07月11日 | 「現代ビジネス」掲載のコラム

 

 

俳優・長谷川博己が

『麒麟がくる』主演を獲得するまで

今や日本を代表する俳優、その軌跡(後編)

 

新型コロナウイルスの影響で、NHK大河ドラマ『麒麟がくる』が休止中だ。

「麒麟のいない時間」の欠落を補うことは出来ないが、その再開を待ちながら、主人公の明智光秀を演じている「俳優・長谷川博己」の軌跡をたどってみたい。

前回、2010年の『セカンドバージン』にはじまり、『鈴木先生』『雲の階段』『夏目漱石の妻』などを取り上げた。今回は、『麒麟がくる』へと至る後編である。

 

『獄門島』で新たな「金田一耕助」を創出

2016年11月19日、NHK・BSプレミアムで、横溝正史原作『獄門島』が放送された。

横溝作品は、これまで何度も映像化され、何人もの俳優が「探偵・金田一耕助」に扮してきた。昭和20年代の片岡千恵蔵はともかく、市川崑監督作品での石坂浩二の印象が強い。またドラマ版には古谷一行を筆頭に、片岡鶴太郎、上川隆也などが並んでいる。

だが、この『獄門島』で長谷川博己が演じた金田一に驚かされた。これまでとは全く異なる雰囲気だったからだ。石坂や古谷が見せた“飄々とした自由人”とは異なる、暗くて重たい、どこか鬱屈を抱えた青年がそこにいた。

背景には、金田一の凄惨な戦争体験がある。南方の島での絶望的な戦い。膨大な死者。熱病と飢餓。引き揚げ船の中で、金田一は戦友の最期をみとり、彼の故郷である獄門島を訪れる。また事件そのものも、戦争がなかったら起きなかったであろう悲劇だった。

このドラマが目指したのは、戦争と敗戦を重低音とした“原作世界への回帰”であり、“新たな金田一像の創出”だった。長谷川は見事にその重責を果たしたのだ。

 

日曜劇場」初主演は、問題作『小さな巨人』

2017年の春クール、刑事ドラマが同時多発した。『CRISIS 公安機動捜査隊特捜班』(関西テレビ制作・フジテレビ)、『警視庁捜査一課9係』(テレビ朝日)、『警視庁・捜査一課長』(同)、『緊急取調室』(同)などだ。

そんな中で異彩を放っていたのが、長谷川博己の『小さな巨人』(TBS)だった。長谷川にとって、満を持しての「日曜劇場」初主演である。

それにしても、『小さな巨人』とは、なかなか大胆なタイトルを付けたものだ。まず、70年代初頭に公開された、ダスティン・ホフマン主演の同名映画が思い浮かぶ。カスター将軍時代のアメリカで、シャイアン族に育てられた青年が、白人と戦う運命を背負うという物語。秀作だが、かなり重たい内容だった。

そして次は、2000年代まで流れていた、「オロナミンCは“小さな巨人”です!」のキャッチフレーズが忘れられない、大塚製薬のCM。懐かしい大村崑は、今も「元気ハツラツ!」な88歳だ。

このドラマでの「小さな巨人」とは、「見た目は小さな存在でも偉業を成し遂げた人」を指す。主人公は元警視庁捜査1課の刑事・香坂(長谷川博己)だ。出世街道を順調に歩んでいたが、上司である捜査1課長・小野田(香川照之)によって所轄署へと飛ばされる。

前半の芝署編では、IT企業社長の誘拐事件や社長秘書の自殺などが発生。真相を探るうち、黒幕として署長(春風亭昇太)が浮かんでくるという大胆な展開だった。誰が味方で誰が敵なのか。「敵は味方のフリをする」のであり、見る側も気を抜けない展開だった。

そして豊洲署編では、事件の現場が「早明学園」という学校法人となっていた。経理課長が失踪するが、その背後には学園の“不正”があった。しかも内偵中の刑事(ユースケ・サンタマリア)も殺害されてしまう。

この学園には元警視庁捜査一課長の富永(梅沢富美男)が専務として天下っている。かつて捜査一課刑事だった香坂の父親を自殺へと追い詰めた、因縁の人物だ。香坂は、ここでもまた警察という巨大組織の力学に翻弄され、苦戦を強いられる。

 

「現代の世話物」というチャレンジ

徐々に明らかになってくるのは、早明学園が行っていた「不正な土地取引」だ。しかもそこには“政治家との癒着”が見え隠れする。

となると、やはり思い浮かぶのは「森友学園問題」であり、「加計学園問題」だ。単なる政治家ではなく、総理大臣という最高権力者の関与が指摘された、当時は「現在進行形」の事件である。もちろん現実の“学園問題”とは設定が異なるが、「学校を舞台とする政治家がらみのスキャンダル」という意味で実にタイムリーだった。

例えば、歌舞伎の演目には「時代物」と「世話物」がある。江戸時代の人たちから見て、過去の世界を舞台にした歴史物語が時代物。一方、当時のリアルタイムな出来事を扱っていたのが世話物だ。近松門左衛門『心中天網島』のような心中事件や殺人事件、さらにスキャンダルも世話物の題材となった。

この『小さな巨人』は、まさに「現代の世話物」と言える。2017年2月、ドラマが準備されていた頃に森友問題が発覚し、制作者たちは急きょ、この現実の事件を物語の中に取り込むことを決意したのだ。

政治家の倫理と犯罪性をどこまで描くのか。それは見る側にとっても、現実とフィクション、2つの「学園問題」が同時進行するスリリングな体験だった。

善と悪の区別が簡単ではなく、敵と味方の見極めも難しい状況の中で、刑事・香坂はじわじわと事件の核心に迫っていく。長谷川は、香坂の中にある怒りや葛藤を、感情をあらわにするのではなく、細かな表情やセリフに込めたニュアンスで表現して見事だった。

そしてもう一つの見所だったのが、香坂VS小野田、いや長谷川VS香川という役者同士の真っ向勝負だ。2人とも、演技過剰とケレンの境目など気にせず、怒鳴り合いも、顔芸も全力投球。「全身俳優」香川照之とのガチンコ対決は、成長する長谷川博己の大きな財産となったはずだ。

 

朝ドラ『まんぷく』の成功に貢献

2018年の秋から始まったのが、NHK連続テレビ小説(以下、朝ドラ)『まんぷく』だ。安藤サクラが演じたヒロイン、福子のモデルは日清食品の創業者・安藤百福(ももふく)の妻、仁子(まさこ)である。百福は「インスタントラーメン」を発明した人物であり、ドラマの中では立花萬平(長谷川博己)となっていた。

大正生まれの仁子は、希代の起業家である百福を徹底的に支え続けた。伝記などによれば、実際は肝っ玉母さん型の普通の主婦だ。こうした、誰かを「裏で支えた人物」をドラマの主人公として成立させるのは結構難しい。朝ドラでの成功例は『ゲゲゲの女房』だろうか。目指すは、ゲゲゲならぬ「インスタントラーメンの女房」だ。

物語は昭和13年からスタートした。女学校を卒業した福子は、ホテルに電話交換手として就職。当時32歳の安藤が、18歳の福子になり切っているのは、演技派女優の面目躍如だ。ただ、あまりに高すぎるテンションは、朝からちょっと鬱陶しかった。

安藤は、ただそこにいるだけで、「何かが起きるのではないか」と思わせてくれる、不穏な空気を現出させることができる貴重な女優である。

映画『万引き家族』でも生かされていたように、何を考えているのかわからない、暗いキャラクターを演じさせたら世界レベルだ。それが「朝ドラ」という舞台に合わせて、どこか無理をしているようにも見えた。

違和感と言うとオーバーだが、この「場」に安藤がいることが、どこか不自然に感じてしまう。安藤自身も、そんなことは十分意識していたのではないだろうか。それを打ち消す、もしくは補うための異様なハイテンションだったのかもしれない。

結局、怒涛の演技はドラマの最後まで続くことになるが、それを中和し、補っていたのが長谷川の存在だ。

「萬平さん」は、世事には疎いし、夫や父としても「困ったちゃん」かもしれない。しかし、「これまでにないもの」を生み出そうとする情熱は誰にも負けない。発明少年がそのまま大人になったような無垢な男だ。

その一方で、「みんなに喜んでもらう」ためには、事業として成功させなくてはならない。発明家にして実業家。そんな高いハードルに挑む萬平を、長谷川はユーモアを交えて悠々と演じていった。

見る側は、「愛すべき萬平さん」を福子たち家族と共有することができただけでなく、「愛すべき萬平さんが愛する福子」という形で、このヒロインを、演者である安藤も含めて肯定することができたのだ。長谷川は、『まんぷく』の成功を支えた最大の功労者と言っていい。

 

大河ドラマの「スペシャル・ファクター」へ

今年の1月、長谷川博己主演のNHK大河ドラマ『麒麟がくる』が始まった。昨年の『いだてん』は意欲的な実験作として評価できるが、残念ながら内容や登場人物が「大河」という枠に合致していたかどうか、疑問が残った。

『麒麟がくる』は、いわゆる「戦国大河」の復活となる。これに対して、戦国時代や幕末など同じ時代、同じ人物が繰り返し取り上げられるという批判があったのも事実だ。しかし、作品によって人物像や史実の解釈が異なる点も大河の魅力だろう。

主人公は明智光秀。「本能寺の変」で主君の織田信長を討ったことによって、「裏切り者」もしくは「悪人」のイメージが強い。

しかし、「歴史」を作ってきたのは、常に勝者であり権力者だ。信長の後継者を自任する秀吉にしてみれば、自らの正当性を主張するためにも、光秀を「逆賊」とする必要があったはずだ。

では、光秀とは果たしてどのような人物だったのか。ドラマはあくまでもフィクションだが、一つの解釈として楽しみたい。

初回で、光秀は主君の斉藤道三(本木雅弘)に直訴して旅に出た。堺に行って、地元にはない「豊かな経済」を体感し、京では「都の荒廃」を目にする。この行動力と洞察力が、光秀にとって終生の武器だ。

脚本を手掛けているのはベテランの池端俊策だが、その手腕は他の場面でも発揮されていた。光秀は京で火事の現場に遭遇する。燃え落ちる民家から子どもを救い出した光秀は、医師・望月東庵(堺正章)の助手、駒(門脇麦)から教えられる。「戦(いくさ)のない世をつくれる人が、麒麟を連れてくる」のだと。

それを聞いた光秀が言う。「旅をしてよく分かりました。どこにも麒麟はいない。何かを変えなければ、誰かが変えなければ、美濃にも京にも、麒麟は来ない!」。光秀が、その後の人生をどう歩むのかを予感させる、見事なセリフだった。

主演の長谷川だが、何よりその立ち姿が美しい。このドラマにおける光秀は、庶民への接し方も人間的で、ごく真っ当な精神の持ち主であることがわかる。そこが、長谷川の雰囲気にはぴったりだ。

ドラマ『鈴木先生』で、鈴木(長谷川)は生徒の小川蘇美(土屋太鳳)のことを、クラスを改革するための「スペシャル・ファクター」と呼んでいた。

実は長谷川こそ、大河ドラマという教室に投入された「スペシャル・ファクター」ではないだろうか。ある時は純な少年の表情を見せ、またある時は大人の思慮深さがにじみ出る「新たな戦国武将像」を創出している。

この戦国武将像ということで言えば、染谷将太の織田信長も、佐々木蔵之介が演じる木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉)も、かなりユニークだ。これまでに見たことのない信長であり、秀吉になっている。

光秀、信長、秀吉と、まさに「役者がそろった」ところでの休止だった。残念ではあるが、「お楽しみはこれからだ」の精神で再開を待ちたい。

かつて長尺の映画には、上映の途中で「Intermission(インターミッション 休憩)」の文字が入り、一旦場内が明るくなったものだ。それは観客にとって、前半を振り返り、まだ見ぬ後半を予測し、心の準備をする愉悦の時間でもあった。『麒麟がくる』も今がその時。「刮目(かつもく)して待て」だ。