碓井広義ブログ

<メディア文化評論家の時評的日録> 
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nippon.comに、『阿修羅のごとく』について寄稿

2025年02月13日 | メディアでのコメント・論評

 

 

是枝裕和と向田邦子の化学反応が生んだ

『阿修羅のごとく』

 

是枝裕和が挑んだ「リメーク」

是枝裕和監督の『阿修羅のごとく』(全7話)がNetflixで世界配信されている。物語の舞台は1979年から翌年にかけての東京。定年退職後、嘱託で仕事をしている竹沢恒太郎(國村隼)・ふじ(松坂慶子)夫妻と4人の娘が主な登場人物だ。

ある日、娘たちは父に若い愛人がいることを知って驚く。母には内密のまま事態を収拾しようと動きだすが、彼女たちもそれぞれの事情や葛藤を抱えていた。

長女の綱子(宮沢りえ)は夫に先立たれ、華道の師範をしている。社会人の息子は家を出ており一人暮らしだが、妻子ある料亭の主人(内野聖陽)との不倫関係が長い。

また次女の巻子(尾野真千子)は、夫の鷹男(本木雅弘)と息子と娘がいる専業主婦だ。暮らしは安定しているが、夫には浮気の疑惑がある。

三女の滝子(蒼井優)は図書館勤めの独身。生真面目な性格と黒ぶち眼鏡が特徴で、美しい姉たちにはコンプレックスを抱いている。恋愛や性への興味はあるが、踏み出す勇気がない。

そして四女の咲子(広瀬すず)は喫茶店で働いている。3人の姉たちと比べると学校の成績は悪いが早熟だった。今は新人プロボクサーと同棲中だ。

普段は別々に暮らしている四姉妹だが、父の浮気という「事件」がきっかけで頻繁に顔を合わせることになる。それまで水面下にあった、互いに対する愛憎や言えなかった本音も表出してくる。

思えば、家族とは不思議なものだ。父、母、子として日々を過ごし、互いを熟知しているはずなのに、家族が家族でいられるのはあくまでも期間限定。何かをきっかけとして、家族の中に他者を垣間見ることもある。

是枝は映画『そして父になる』や『万引き家族』など、これまでも「家族」をテーマに秀作を生んできた。今回も当たり前だと思っていた家族との日常の背後に広がる非日常の闇を丁寧に描き出していく。

この作品は配信開始と同時に国内外で高く評価されているが、忘れてはならないのは「リメーク作」だということだ。

オリジナルは、多くの名作ドラマの脚本を手がけた向田邦子(1929~81年)の『阿修羅のごとく』である。NHKで79年にパート1、80年に続編のパート2が放送された。

今回は向田の脚本をベースに是枝が新たな脚本を書き、演出している。新旧の両作を比較するといくつかの変更点はあるが、全体として原作である「向田脚本」に忠実に作られている。そこには強いリスペクトがある。

ドラマにとって重要なのは、登場人物のキャラクターとセリフ、そしてストーリーの三つだ。それを具体的に表現しているのが脚本である。脚本はドラマの設計図であり海図なのだ。是枝に映像化を促した向田脚本の存在こそ、この作品の源泉と言えるだろう。

「脚本家・向田邦子」の軌跡

向田邦子は1929年11月に東京の世田谷で生まれた。7歳の時に日中戦争が始まり、 45年の敗戦時には15歳だった。

50年、実践女子専門学校(実践女子大学の前身)を卒業すると、財政文化社に入って社長秘書を務める。2年後には出版の雄鶏社に転職。洋画雑誌「映画ストーリー」の編集に9年近く携わった。

日本でテレビ放送が始まったのは53年のことだ。その5年後に向田は出版社に在籍したまま、脚本家の世界へと足を踏み入れる。

64年に始まった森繁久彌主演の大家族ドラマ『七人の孫』(TBS系)、71年には人気シリーズ『時間ですよ』(同)に参加。評価が高まる中で書き上げたのが74年の『寺内貫太郎一家』(同)だ。向田は44歳になっていた。

気に入らないことがあれば怒鳴り、ちゃぶ台をひっくり返して家族に鉄拳を振るう貫太郎は、どこか懐かしい「昭和の頑固オヤジ」そのものだ。

実は、この頃までホームドラマを支えていたのは「母親」だった。50年代の終わりから約10年も続いたドラマシリーズ『おかあさん』(同)はもちろん、70年代前半のヒット作『ありがとう』(同)も母親を中心とする物語だ。その意味で「父親」を軸とした『寺内貫太郎一家』は画期的なホームドラマだったのである。

ところが、75年に向田は乳がんの手術を受けることになる。現在よりも、がんという病気が恐れられていた時代だ。向田も自身の問題として「死」について思い巡らすが、それは同時に「今後どう生きるか」の問題でもあった。

77年の『冬の運動会』(同)は、他人である靴屋夫婦の家に自分が求めていた「家庭」を見いだそうとする青年(根津甚八)の話だが、これ以降、向田が書く家族劇の「緊張度」は一気に高まっていく。

それまでのホームドラマにはあまり見られなかった、家族の「影」や「闇」の部分にメスを入れたのだ。人間の本音に迫るリアルでシリアスなホームドラマ。これから先の人生は「自分が書きたいものを書く」という覚悟の表明だった。

そして79年に登場したのが『阿修羅のごとく』(NHK)だ。性格も生き方も違う四姉妹(加藤治子、八千草薫、いしだあゆみ、風吹ジュン)を軸に、老父母、夫や恋人も含めた赤裸々な人間模様が映し出され、向田ドラマの代表作の一つとなった。

それから約1年後、向田は台湾取材中の航空機事故で亡くなってしまう。

向田邦子との「化学反応」

前述のように、是枝版『阿修羅のごとく』における重要な場面では、向田の脚本がそのまま使われている。

例えば、父親のコートにブラシをかけながら小学唱歌をのんびりと歌っている母親…

「♪でんでん虫々 かたつむり」

コートのポケットの中からミニカーが一つ、転がり出る。妻が浮気に感づいていないと思い込んでいる夫。愛人が産んだ子供にプレゼントするつもりなのだ。

母親は黙ったままミニカーを手のひらに載せ、しばらく見ている。

「♪お前のあたまはどこにある」

畳の上でミニカーを走らせたりする母親。だが、いきなりそのミニカーを襖(ふすま)に向かって、力いっぱい叩(たた)きつけるのだ。穏やかだった母親の顔が、一瞬、鬼の形相に変わる。

「♪角出せ、やり出せ、あたま出せ」

突然電話が鳴って、母親はいつもの様子に戻る。

「もしもし、竹沢でございます。──ああ咲子(四女)、あんた元気なの?」

見ていて、実に怖い。こういうシーンを、さらりと入れ込んでくるのが向田の凄(すご)みだ。

その一方で、是枝は脚本の大胆なアレンジも行っている。オリジナルでは第3話の終わりに置かれた、鷹男のセリフを最終回である第7話のラストにもってきたのだ。

談笑する四姉妹を、滝子と結ばれた勝又(松田龍平)と一緒に眺めながら・・・

勝又「仲いいんだか悪いんだかわかりませんね、あの4人」

鷹男「ああ、阿修羅だねえ」 

勝又「え?」

鷹男「女は阿修羅だよ」 

勝又「阿修羅?」

鷹男「阿修羅はインドの神様でさあ、外っかわは仁義礼智信を標榜してるけどねえ、人の悪口言うのが好きでさあ」

すると姉妹たちが、「何か言った?」と笑いながら睨(にら)む。

では、第3話の終わりはどうしたか。是枝は、このセリフの代わりに漱石の『虞美人草(ぐびじんそう)』の終わりの文章をテロップで提示する。

悲劇は喜劇より偉大である。

粟か米か、是(これ)は喜劇である。

あの女かこの女か、是も喜劇である。

英語か独乙(ドイツ)語か、是も喜劇である。

凡(すべ)てが喜劇である。

最後に一つの問題が残る。

生か死か。

是が悲劇である。  『虞美人草』より

悲劇であり喜劇でもあるこのドラマを象徴して見事だった。

こうしたアレンジと同時に、是枝は四姉妹の「現代化」を繊細な手つきで行っている。オリジナル版では、どこか男性に対して遠慮する女性像が描かれていた。当時の価値観を反映していたとも言える。それが是枝版では微調整され、随所に彼女たちの秀逸な自己主張が見て取れる。

半世紀近く前という設定であるにもかかわらず、家族や男女を巡る「普遍的な実相」があぶり出されていくこの物語は、まさに是枝作品であり向田ドラマだ。

 

碓井広義

メディア文化評論家。博士(政策研究)。テレビマンユニオン・プロデューサー、上智大学文学部新聞学科教授を経て現職。新聞各紙でドラマ評を連載中。編著『少しぐらいの嘘は大目に―向田邦子の言葉』(新潮文庫、2021年)、倉本聰との共著『ドラマへの遺言』(新潮新書、2019年)、『脚本力』(幻冬舎新書、2022年)などがある。

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