碓井広義ブログ

<メディア文化評論家の時評的日録> 
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寺山修司は今も実験室の中にいる

2009年02月28日 | 本・新聞・雑誌・活字
           キャンパス内のマックにも雪(昨日)


2月は今日でおしまい。

「2009年2月の最後の日に読む本」として選んだのは、『寺山修司著作集3 戯曲』だ。

真っ赤な箱入り。厚い。重い。奥付を見ると、初版発行が昨日、2月27日となっている。

それにしても、新刊である。寺山修司が亡くなったのが1983年。26年という時間が過ぎても、評伝や研究書だけでなく、こうして本人の書いた著作物が出版されるところが、すごい。

監修者に山口昌男さんが加わったこの著作集。全5巻の予定なのだが、先月、なぜか2巻目から出始めた。

第2巻はシナリオやドラマで、これも貴重なラジオドラマを読むことが出来て嬉しかったが、この第3巻は、寺山の基軸となる「戯曲」である。

「青森県のせむし男」がある。
「毛皮のマリー」がある。
「毒身丸」もある。

そんな中で、今回、戯曲として初めて読んだのが「観客席」だった。

これが実に刺激的なのだ。

舞台というより、本当に観客席を含めた会場全体を使っている。そして、劇中には「観客を演じることになっている俳優」や、「俳優をやっていただいている観客」や、舞台監督や劇場支配人も登場するのだ。

途中で、(本物の)観客が、「観客席」には、(自分のような本物の)観客だけでなく、俳優もいることに(当然)気がつく。

面白いのは、その気がついてから後の観客の心理も計算に入れながら、寺山が劇を構成していることだ。

観客は思う。一体、何人くらいの俳優が「観客にまぎれ、整理番号をもらって列をなして入場してきた」のだろう。もしかしたら、自分の隣の席の男も、俳優なのではあるまいか?

舞台が、演じる者と、それを観る者とで成り立っていて、自分はその片側に安穏として座っているという、観客の「観客としての現実」が揺さぶられるのだ。とても寺山らしい。

寺山は自ら主宰する「天井桟敷」を“劇団”とは呼ばなかった。「演劇実験室・天井桟敷」である。

寺山修司にとって、短歌も、演劇も、小説も、映画も、ラジオドラマも、すべて実験だったのではないか。

実験とは、理論や仮説を一定の条件の下で試し、確かめてみることだ。安定や完成を目指すものではない。

“実験するココロ”を失ったとき、創造や表現は、自由とか、のびやかさとか、しなやかさとかを失うのではないか。

そこに、没後26年の今も、寺山作品が、観客や読者を刺激し続ける理由があるように思う。

寺山修司著作集〈3〉戯曲
寺山 修司,山口 昌男,白石 征
クインテッセンス出版

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