今日はかぐやが帰る日。ほんのわずかではあるが、しばらく振りにかぐやを教える事になった。そうね、もうモザイクとして教える事があるのかな?って思えるほど上手くなったな・・・・と思う作品を作るようになった。
ただもし教える事があるとしたら・・・それは俺のが情緒だったり繊細だったり、そうね・・・気持ちの問題なんじゃないのかな・・・?と思うのね。
それをそんなの関係ないって言うのなら、教える事は無くなったろうし、そう言う人はお坊さんに背中なんか叩かせる座禅なんて馬鹿げている・・・
そう言っているようなもので、心が乱れているなんてナンセンスでしょ?あはははは。ただ、もしそれが信頼関係として、弟子と師匠なんて関係を築きつつある途上であるのなら、そんな事は言わなくても伝わっているもので、どちらかと言うと何処まで伝わっているのか?の確認みたいなもの。
そもそももうかぐやとのやり取りは電話のみ。その電話の声のみで何かを伝えないとならない。つまり耳で聞き取るって話。
指導として、アトリエに簡単には来られなくなった俺達は目を失った関係を相当続けた事になる。
そうなると盲目になった人が歩こうとする事と一緒で、失ったものを補うにはあるものをより鍛えて、敏感に繊細に磨く事で、まるで眼が見えているように歩く事が出来る。それが耳であり、いかに繊細にキャッチするか?とか、杖に伝わった感触で斜めやデコボコ段差を感じる・・。そうね感じる。
もし、それが合っているのなら、いかに口で繊細に表現をし、相手はそれを敏感に察知し、確認する為に、こう言う事か?と聞き返す、こんなやり取りで相手の眼のサポートをする事が出来るのなら、きっと最初は役立つだろうね・・・。その繰り返しで1人で歩けるようになるのなら・・・ね。
それには相手を信用しないと、不安で1歩が踏み出せない。しかし最初は不安でも頼るしかないから、受け入れるしかない。けれど、何度も繰り返す最中では、踏み出す一歩の歩幅が違っていたり、眼が見えている人には小さな石でも、見えない人には大きく感じたり、明らかに感覚が違ったりする。
その感覚の違いを表現し切れないかぐやがいたり、それを感じられない指導者としての自分がいる。しかし、繰り返せばお互いに成長はする。
教えられる者も教える方も。しかし、追い掛けて来る者の勢いは凄いもので、それは子供の成長みたいなものだと思うのね。
成長し大きくなり、綺麗になり、見た目は自分よりも良くなって行くでしょ?・・・しかし、大きくなった割りに中身は子供のままで・・・と親は言うのね・・・。そう師匠と弟子の関係と言うのなら、俺はかぐやに教えて、腕としてのモザイクを追い付かれそうになるんだろうね。
しかし、中身は・・・ってね。まぁ勉強させられるのね。おっと話を戻して、
要するにそのやり取りが出来た上で、耳を鍛えて、今の時代の近代兵器のデジカメやネットなんてものを上乗せするのなら、その画像はあくまでトッピングになる。つまり眼にばかり頼らない・・・そう言う考え方もあるってね。
しかしながら、その考え方は昔から、百聞は一見にしかず・・・と言う。つまり見ると言う感覚は百回聞くより威力は違うらしい・・・。
ただ、それは眼のみに頼った人の話だと思うのね・・・普通はねってね。もしそれが合っているとするのなら、モザイクも同様で、色の混ぜられない技法で作らなければならないのに、色を混ぜる技法の絵画のように色に頼った作り方をしているのでは、百聞は一見にしかずからは抜け出る事は出来ない。
自分で色を作り出す技術の絵画と、決まった色しかない中でのチョイスのモザイク・・・・。違う考え方のものなの全て一緒の考え方のみではね。
つまり眼の見える考え方と目の見えない考え方では条件が変わって来るはず・・・。それを百聞は一見にしかずのみでは諦めるしかなくなる。
時に常識って言うのは非常識であったりもする。そもそも1つの事例に全てを当てはめようとする事がナンセンスなのである。
ただ、とは言え、サッカーとラグビーみたいな話で、サッカーをやっていて、ボールを持って走った・・・って事例があってそこから発生したラグビー。
手を使ってはいけないサッカーに手を使うラグビー。前に前に進みたいのに、ボールを後ろにしかパスを出せないラグビーに、大きく右へ左へ広げて、
前に蹴り出せるサッカー。最後の最後に手を使える大きな壁になるキーパーのいるサッカーに、守るものは今までの自分達のみのラグビー・・・
明らかに出所は同じであるのに、完全に意図的に正反対に作ったとしか思えない・・・別にそれを人に聞かなくても、興味を持った瞬間、比較すれば明らかに人が意図的な事で作った事を感じられたりする。・・・・そう、感じるって言うのは、意識をすれば子供でも出来る事。
そこに正解なんていらない。感じる事が出来れば、とするのなら、どうなのか?・・・・とモノの考え方の1つとして、持論ってものが持てたりする。
しかし、感じない、って言うのは興味を持たない、持てない、って意味で、持たないのは意識的であり、持てないのは努力不足。
そもそもかぐやも俺も凡人だから、意図的、意識的に感じる事を練習しないと優れた人達から見ると、劣っている事になる。
優れた作家達は、そう言う事を意識せず無意識にやれると思うのね。つまり自然に。これに匹敵する別物としてどうにかしないと、俺に生き残る道は無いのね・・・つまり意識的に養殖よっ・・・天然じゃなくて。
さっきのラグビーとサッカーの関係のように、意図的にそう言うラグビーのような発生の仕方を考えないと、そこに方を並べようとする事は出来ない・・・と思われる。
ならば、見る眼を持っているだけ、聞き取る耳を持っているだけ、想像力も鍛えないで、感に頼る・・・これでは超一流に肩を並べるなんて、言語道断。俺は出来れば最低超一流くらいになりたい・・・と思っているのね。最低ね。俺程度でもなれる事を見せたい為に・・・。
誰に?・・・見たいと思ってくれる人達に。別に見て欲しい・・・なんておこがましい事を言わないし、本当に凄ければ見たくなるだろうし、要するにここも人の五感を振るわせる事が出来るのなら、くだらないテクニックに頼らずに、感じて貰う・・・って考え方があるって教えているのね。
テクニックなんてもんは、基本の劣っているものが使っても何の役にも立たないし、まずは誰でも出来る事はきちんと出来る事はきちんとこなせる。
こう言う基本が出来てからの崩しって考え方が基本であると思われるのね。
勿論、これを絶対ね・・・と言えるのは弟子達にのみであり、その弟子にもやれ・・・って言うのはかぐやだけで、基本はこうである・・・と教えても強制では無く、私には教えなかった・・・・って言う事の無いように・・・であって、自分で考える・・・これも必要だったりする。
そもそもかぐやはアトリエに中々来られないのだから、来られる指導とは全く違って当然な訳で、ワンちゃんのように海外の人もいるのだから、ここから何かヒントになる事があるかも知れない。ただ、それは必要である人には凄く必要であるだけで、必要じゃない人にはうっとうしいだけのもの。
それは何でも一緒で、世界のサッカー、ワールドカップであっても100パーセントの視聴率は取れないのだから、俺程度が支持されるなんて言うのは、どの程度なら良いのか?って話。まっ出来れば多いに越した事は無いけれどね・・・。
しかしながら、高々その程度の俺の指導でも、かぐやのこの作品が出来たとなると、話は全く違って来る。ただね、それでもかぐやじゃね・・・
みんなから、俺の指導じゃなくて、かぐやが優秀だったからでしょ・・・って言われそうじゃない・・・?あははははは。
まっ、そう言われない様に努力ね・・・俺も。日々是、決戦・・・・ちなみこれ昔、代ゼミに通ってた奴が持っていたキッチフレーズ。
って馬鹿な話は終わりにして、作った場所で納得出来ない場所を指摘して、納得した上で壊して直させた。
まだ数箇所あるが、それはまた近い内に来る事にして、途中となった・・・・。しかしながら、細かい事は置いといて、本当に上手くなった。
本当に海外に行かなくても、ここに世界がある。・・・・これを世界の人達が観に来る。そんな日が必ず来るって思える弟子である。
しかし、この本気な作品をサラッとした態度で作ったように見える態度が小憎らしくなった。中々である。昔は随分必死で作った態度で、アップアップだったが、すんなり85点を取るようになった。頼もしくなった。流石である。
そんな中、日高氏がやって来た。そして一緒に昼を食べた。昨日の晩は3人だった・・・そうそこにキウイがやって来た。なので、いつもの喫茶店に出掛けた。そうね、これがキウイの打ち上げだから。そして4人になった・・・・。
この意味が判る4人・・・・見ている事じゃない光景が見えているはず・・・・いつかの自分達がイメージ出来るか?出来ないか?・・・・
福山君の新曲でも良いし、イメージの向こう側・・・・って言うのを感じるか?感じないか?って言うのが大事なメンバーなのね・・・。
何も感じないのなら、感じない流派で進むも良しだし、感じる流派であるのなら、より感じられれば繊細さに磨きが掛かるだろうね・・・きっと。
ただね、そんな敏感になったら視覚過敏だから、痛みに強くなる心や肉体を持たないと、治療するしかないね・・・きっと。あはははは。
いずれにせよ、そんな時間にも終わりが来る・・・・かぐやにまたな・・・って手を振って日高氏が去り、かぐやさんまた・・・ってキウイが去ってった・・・・そして俺と2人羽田へ。
今月は何度羽田に来たんだろう・・・また来た。そしてまたかぐやを見送る。またな・・・また・・・って。昨日、ある話をした時に、日高氏が、また・・・って言えば、またがある・・・って言ってた。俺もそう思う。だから、また・・・って自然と出る。
だから、きっとまた・・・があるんだろう。ただまた奴は成長して来る。こんなに上手くなって・・・・。俺はこいつの師匠を勤めたいと思うのなら、捨てられないように、また何かを身に付けないと、どんどんと追い付かれるんだな・・・また教えてしまったのだから・・・・。
おっかない関係である。ただ、それでもまた・・・と思えるのだから、お見事なんであろう。しかも、かぐやを名残惜しいと思っている人がいたって事・・・・目の前で百聞は一見にしかず・・・と言うのなら。あの2人の顔を見て何も感じない馬鹿では無かろう・・・。
いすれにせよ、今年の夏が少しずつ終わって行くのを感じたろうな・・・俺達。
さて、それじゃ儀式でもやるか・・・って儀式とは、こんなザマでした・・・を一緒に体験をする。それが羽田のフードコートで浮世離れしていた生活にさよならをする・・・・選ばずに必ずこのラーメンを一緒に食べる・・・悔しかったらこれじゃないものを選んで食べられるように・・・とか、
また主婦に戻れ・・・とか、貧乏作家だよ・・・お前は・・・と非現実から現実に戻る儀式なのね・・・・。ただその儀式は、また・・・にも繋がっている訳で・・・これもまた良し・・・でもある。何しろ何も感じずに楽しいだけ・・・とか、名残惜しいとか、そんな事では無くて、
明日への次なるステージへ行く前の段落変えみたいなひとコマ・・・みたいな話。各々何かを感じるものがあって、またそれを抱えてやって来る。
さて、そんなこんなでまた気持ちの切り替え・・・・ただ少し疲れた・・・。
ただもし教える事があるとしたら・・・それは俺のが情緒だったり繊細だったり、そうね・・・気持ちの問題なんじゃないのかな・・・?と思うのね。
それをそんなの関係ないって言うのなら、教える事は無くなったろうし、そう言う人はお坊さんに背中なんか叩かせる座禅なんて馬鹿げている・・・
そう言っているようなもので、心が乱れているなんてナンセンスでしょ?あはははは。ただ、もしそれが信頼関係として、弟子と師匠なんて関係を築きつつある途上であるのなら、そんな事は言わなくても伝わっているもので、どちらかと言うと何処まで伝わっているのか?の確認みたいなもの。
そもそももうかぐやとのやり取りは電話のみ。その電話の声のみで何かを伝えないとならない。つまり耳で聞き取るって話。
指導として、アトリエに簡単には来られなくなった俺達は目を失った関係を相当続けた事になる。
そうなると盲目になった人が歩こうとする事と一緒で、失ったものを補うにはあるものをより鍛えて、敏感に繊細に磨く事で、まるで眼が見えているように歩く事が出来る。それが耳であり、いかに繊細にキャッチするか?とか、杖に伝わった感触で斜めやデコボコ段差を感じる・・。そうね感じる。
もし、それが合っているのなら、いかに口で繊細に表現をし、相手はそれを敏感に察知し、確認する為に、こう言う事か?と聞き返す、こんなやり取りで相手の眼のサポートをする事が出来るのなら、きっと最初は役立つだろうね・・・。その繰り返しで1人で歩けるようになるのなら・・・ね。
それには相手を信用しないと、不安で1歩が踏み出せない。しかし最初は不安でも頼るしかないから、受け入れるしかない。けれど、何度も繰り返す最中では、踏み出す一歩の歩幅が違っていたり、眼が見えている人には小さな石でも、見えない人には大きく感じたり、明らかに感覚が違ったりする。
その感覚の違いを表現し切れないかぐやがいたり、それを感じられない指導者としての自分がいる。しかし、繰り返せばお互いに成長はする。
教えられる者も教える方も。しかし、追い掛けて来る者の勢いは凄いもので、それは子供の成長みたいなものだと思うのね。
成長し大きくなり、綺麗になり、見た目は自分よりも良くなって行くでしょ?・・・しかし、大きくなった割りに中身は子供のままで・・・と親は言うのね・・・。そう師匠と弟子の関係と言うのなら、俺はかぐやに教えて、腕としてのモザイクを追い付かれそうになるんだろうね。
しかし、中身は・・・ってね。まぁ勉強させられるのね。おっと話を戻して、
要するにそのやり取りが出来た上で、耳を鍛えて、今の時代の近代兵器のデジカメやネットなんてものを上乗せするのなら、その画像はあくまでトッピングになる。つまり眼にばかり頼らない・・・そう言う考え方もあるってね。
しかしながら、その考え方は昔から、百聞は一見にしかず・・・と言う。つまり見ると言う感覚は百回聞くより威力は違うらしい・・・。
ただ、それは眼のみに頼った人の話だと思うのね・・・普通はねってね。もしそれが合っているとするのなら、モザイクも同様で、色の混ぜられない技法で作らなければならないのに、色を混ぜる技法の絵画のように色に頼った作り方をしているのでは、百聞は一見にしかずからは抜け出る事は出来ない。
自分で色を作り出す技術の絵画と、決まった色しかない中でのチョイスのモザイク・・・・。違う考え方のものなの全て一緒の考え方のみではね。
つまり眼の見える考え方と目の見えない考え方では条件が変わって来るはず・・・。それを百聞は一見にしかずのみでは諦めるしかなくなる。
時に常識って言うのは非常識であったりもする。そもそも1つの事例に全てを当てはめようとする事がナンセンスなのである。
ただ、とは言え、サッカーとラグビーみたいな話で、サッカーをやっていて、ボールを持って走った・・・って事例があってそこから発生したラグビー。
手を使ってはいけないサッカーに手を使うラグビー。前に前に進みたいのに、ボールを後ろにしかパスを出せないラグビーに、大きく右へ左へ広げて、
前に蹴り出せるサッカー。最後の最後に手を使える大きな壁になるキーパーのいるサッカーに、守るものは今までの自分達のみのラグビー・・・
明らかに出所は同じであるのに、完全に意図的に正反対に作ったとしか思えない・・・別にそれを人に聞かなくても、興味を持った瞬間、比較すれば明らかに人が意図的な事で作った事を感じられたりする。・・・・そう、感じるって言うのは、意識をすれば子供でも出来る事。
そこに正解なんていらない。感じる事が出来れば、とするのなら、どうなのか?・・・・とモノの考え方の1つとして、持論ってものが持てたりする。
しかし、感じない、って言うのは興味を持たない、持てない、って意味で、持たないのは意識的であり、持てないのは努力不足。
そもそもかぐやも俺も凡人だから、意図的、意識的に感じる事を練習しないと優れた人達から見ると、劣っている事になる。
優れた作家達は、そう言う事を意識せず無意識にやれると思うのね。つまり自然に。これに匹敵する別物としてどうにかしないと、俺に生き残る道は無いのね・・・つまり意識的に養殖よっ・・・天然じゃなくて。
さっきのラグビーとサッカーの関係のように、意図的にそう言うラグビーのような発生の仕方を考えないと、そこに方を並べようとする事は出来ない・・・と思われる。
ならば、見る眼を持っているだけ、聞き取る耳を持っているだけ、想像力も鍛えないで、感に頼る・・・これでは超一流に肩を並べるなんて、言語道断。俺は出来れば最低超一流くらいになりたい・・・と思っているのね。最低ね。俺程度でもなれる事を見せたい為に・・・。
誰に?・・・見たいと思ってくれる人達に。別に見て欲しい・・・なんておこがましい事を言わないし、本当に凄ければ見たくなるだろうし、要するにここも人の五感を振るわせる事が出来るのなら、くだらないテクニックに頼らずに、感じて貰う・・・って考え方があるって教えているのね。
テクニックなんてもんは、基本の劣っているものが使っても何の役にも立たないし、まずは誰でも出来る事はきちんと出来る事はきちんとこなせる。
こう言う基本が出来てからの崩しって考え方が基本であると思われるのね。
勿論、これを絶対ね・・・と言えるのは弟子達にのみであり、その弟子にもやれ・・・って言うのはかぐやだけで、基本はこうである・・・と教えても強制では無く、私には教えなかった・・・・って言う事の無いように・・・であって、自分で考える・・・これも必要だったりする。
そもそもかぐやはアトリエに中々来られないのだから、来られる指導とは全く違って当然な訳で、ワンちゃんのように海外の人もいるのだから、ここから何かヒントになる事があるかも知れない。ただ、それは必要である人には凄く必要であるだけで、必要じゃない人にはうっとうしいだけのもの。
それは何でも一緒で、世界のサッカー、ワールドカップであっても100パーセントの視聴率は取れないのだから、俺程度が支持されるなんて言うのは、どの程度なら良いのか?って話。まっ出来れば多いに越した事は無いけれどね・・・。
しかしながら、高々その程度の俺の指導でも、かぐやのこの作品が出来たとなると、話は全く違って来る。ただね、それでもかぐやじゃね・・・
みんなから、俺の指導じゃなくて、かぐやが優秀だったからでしょ・・・って言われそうじゃない・・・?あははははは。
まっ、そう言われない様に努力ね・・・俺も。日々是、決戦・・・・ちなみこれ昔、代ゼミに通ってた奴が持っていたキッチフレーズ。
って馬鹿な話は終わりにして、作った場所で納得出来ない場所を指摘して、納得した上で壊して直させた。
まだ数箇所あるが、それはまた近い内に来る事にして、途中となった・・・・。しかしながら、細かい事は置いといて、本当に上手くなった。
本当に海外に行かなくても、ここに世界がある。・・・・これを世界の人達が観に来る。そんな日が必ず来るって思える弟子である。
しかし、この本気な作品をサラッとした態度で作ったように見える態度が小憎らしくなった。中々である。昔は随分必死で作った態度で、アップアップだったが、すんなり85点を取るようになった。頼もしくなった。流石である。
そんな中、日高氏がやって来た。そして一緒に昼を食べた。昨日の晩は3人だった・・・そうそこにキウイがやって来た。なので、いつもの喫茶店に出掛けた。そうね、これがキウイの打ち上げだから。そして4人になった・・・・。
この意味が判る4人・・・・見ている事じゃない光景が見えているはず・・・・いつかの自分達がイメージ出来るか?出来ないか?・・・・
福山君の新曲でも良いし、イメージの向こう側・・・・って言うのを感じるか?感じないか?って言うのが大事なメンバーなのね・・・。
何も感じないのなら、感じない流派で進むも良しだし、感じる流派であるのなら、より感じられれば繊細さに磨きが掛かるだろうね・・・きっと。
ただね、そんな敏感になったら視覚過敏だから、痛みに強くなる心や肉体を持たないと、治療するしかないね・・・きっと。あはははは。
いずれにせよ、そんな時間にも終わりが来る・・・・かぐやにまたな・・・って手を振って日高氏が去り、かぐやさんまた・・・ってキウイが去ってった・・・・そして俺と2人羽田へ。
今月は何度羽田に来たんだろう・・・また来た。そしてまたかぐやを見送る。またな・・・また・・・って。昨日、ある話をした時に、日高氏が、また・・・って言えば、またがある・・・って言ってた。俺もそう思う。だから、また・・・って自然と出る。
だから、きっとまた・・・があるんだろう。ただまた奴は成長して来る。こんなに上手くなって・・・・。俺はこいつの師匠を勤めたいと思うのなら、捨てられないように、また何かを身に付けないと、どんどんと追い付かれるんだな・・・また教えてしまったのだから・・・・。
おっかない関係である。ただ、それでもまた・・・と思えるのだから、お見事なんであろう。しかも、かぐやを名残惜しいと思っている人がいたって事・・・・目の前で百聞は一見にしかず・・・と言うのなら。あの2人の顔を見て何も感じない馬鹿では無かろう・・・。
いすれにせよ、今年の夏が少しずつ終わって行くのを感じたろうな・・・俺達。
さて、それじゃ儀式でもやるか・・・って儀式とは、こんなザマでした・・・を一緒に体験をする。それが羽田のフードコートで浮世離れしていた生活にさよならをする・・・・選ばずに必ずこのラーメンを一緒に食べる・・・悔しかったらこれじゃないものを選んで食べられるように・・・とか、
また主婦に戻れ・・・とか、貧乏作家だよ・・・お前は・・・と非現実から現実に戻る儀式なのね・・・・。ただその儀式は、また・・・にも繋がっている訳で・・・これもまた良し・・・でもある。何しろ何も感じずに楽しいだけ・・・とか、名残惜しいとか、そんな事では無くて、
明日への次なるステージへ行く前の段落変えみたいなひとコマ・・・みたいな話。各々何かを感じるものがあって、またそれを抱えてやって来る。
さて、そんなこんなでまた気持ちの切り替え・・・・ただ少し疲れた・・・。