今日はkameyaさんの出張教室。何しろ今日はりょうさんなのね・・・先日のナオミぃぃに引き続き、目地をして大作が終わったのね。ちなみに若干広めだったフクロウの目地幅をブラウンの目地にして、バックをベージュにしたのね。それに寄っての効果は、バックを同化させて粒々に見えていた模様を1つに見える事でスッキリ
になり、よりフクロウに目が行くようになり、更に少し広めの目地幅をブラウンでカバーした事でクッキリはっきりさせて、よりフクロウが見やすくなった。これを見て棟梁が良いね・・・と言うものの、何か凄く早かった感じがする・・・みたいな表現があって、そう感じる1つには、やはり自宅でパーツ切りしていたって事は大きい。
それに寄って、当日考えながら切るのと、切って来たパーツの是正なら、進むペースは速いし、それと帰り際の宿題パーツの話をしてから帰るって言う事で、考えるって言う事が随分と慣れた気がするのね。創作活動って言うのはアドリブだけでは難しいもので、構想は当日では無く次回までの間にするものなのね。それでも、
例えば正解が出なかったとしても、色々と考えたはずなのね。その時に大事なのは、失敗だと思って消してしまったアイデアがあるはずなのね。そのアイデアが本当に失敗かどうか?検証する事が正解探しなのかも知れないのね。その時にkameyaさんには棟梁もおかみさんもいる訳で・・・自分より上手い人の眼でも検証する。
そうすると、自分の眼で消したものが、使い方次第で良くなったりして・・・考えた事を無駄にしなくて済んだりもする。それが出来るのも考えた事を持っているのと、その場でどうしようかな?・・・では、頭の中で決まってもいないものを仮にみんなに付き合って貰うって言うのは、ちょっとどうかな?って話でしょ?みんなも進めたい
訳だから。けれど、こんな事を考えたらしいんだけれど・・・?って質問なら、ほんの一瞬で各々の意見は出るモノで・・・実はそのいきなりの質問が棟梁やおかみさんにはアドリブの練習になるのね。本来、自分の作品に専念したいものだけれど、その作品ってどう作っている?って言うと、単純に自分の好みで作っていたりする。
でもそれなら自分を磨かないと、ただ切る事、張る事が上手くなるだけなのね。では自分を磨く・・・どう磨く?って言うと、考える・・・って事だと思うのね。つまりこう思う・・・って何かを持って話した時に、全くそう見えなかったり、お門違いな感じになっていたりした場合、切る張るが上手ければ上手い分、お門違いを正確に
作る事になる訳で。つまり2人は自分の作品を進める事も大事だけれど、そうした質問に答える事で、自分なりの意見を言う練習になるのね。そもそも自分の作品は自分の好きなモノだけの中で考えているのね。しかし人の作品についての話は、特に興味の無いものもあったりする。つまり興味をそそらないもの・・・。
そんなお題に向き合うのだから、常に新鮮な意見を求められる。これが好きなモノの時だけ反応しては、いつかその範囲のみになり、狭める。まぁ古典落語と新作落語みたいな話で、常に同じ話をより充実させるのなら、繰り返しは必要だし、常に新しい事を生み出そうとするのなら、常に新しい発想が必要な訳で・・・。
しかもオリジナルをやっているのなら、尚更で・・・新作落語作りになる。その時に自分の好きなモノの中には無かったけれど、意外とそれ使えるかも?と思えたりするものが出るかも知れないのね。それが発見だったりする。常にそこに、感じる・・・って敏感なものを持てるようになると、今、手を止めてでも向き合う時間が、
大事になったりもするのね。しかもその時に質問した人との差があれば、楽に簡単に答えられるが、りょうさん位になると、中々高度な質問になるから、難易度は高く、質問が難しくなればなるほど、勉強になるもので・・・。そんな練習が自分の作品の時に、考える・・・って向き合う練習になるものだったりするのね。
それは俺とて同じで、みんなの質問に答えるって事は、それだけ向き合う回数が増える訳で。そこで勘違いしちゃいけないのは、こうだ・・・と押し付けるのでは無く、こう思うであって、ここも難しいのは、先生として認められればられるほど、先に意見は言わなくなるもので・・・それはその人への影響が強くなるから。
まぁそこまで膨らませる話でも無いのかも知れないから、この辺にするとして、いずれにせよ、こんな話をする作品が完成したのでお疲れ様・・って言いたい所なんだけれど、もう既に新作の絵があって、その是正までやってたのね・・・つまり完成したのに通過点。しかもオリジナルで大作となれば、この作品を大きく超える
作品な予感があるので、楽しみなのね。そんな中、本当のお楽しみ作品も完成。

これは以前、俺がやろうとしていた下地なんだけれど、何か思っていた通りに作ってくれた感じなのね。きっと俺もこんな感じにしていたと思うのね。
では棟梁。これが最初に見せたいのはこれ。

先日作ったプレゼント作品。表札になったんだけれど、こうしてきちんとした字が入ると、見事な表札に・・・格式高くなったし、こんな個性的な表札見た事無い。
何か下地を見事に使いこなしてくれた・・・って感じで見ていて楽しい。2人共に、下地を最大限に生かしてくれた仕上がりなのね。

で大作なんだけれど、りょうさんも新作が花なんで、これを良く見て置く事なのね。棟梁でさえこれしか進まないって事。つまり質を問えば、進む事よりも美しいかどうか?棟梁は下絵に2年も掛かった・・・だから気長にやるつもりで・・・なのね。ではおかみさん。

もう流石に終わらせないと・・・って感じ。後はガラスでクラッシュ。コツは大きいスペースにいかに小さいパーツを入れるか?と小さいスペースにいかに大きいパーツを入れるか?の意識を持って切れるか?なのね。それをここは狭いから入れば良い、ここは広いからドン・・・って感じになると、粗雑感が出ちゃうのね。だから
意識する事が大事で、そうするだけで、終わりも見えるし、丁寧な仕上がりになるはずなのね。後もうちょっとなのね。そんな後は新モンゴル日馬富士学園の額。

例えば上部の図面的なものと、それを切る為にホームセンターでこうやって切って貰う・・・みたいなものなんだけれど、単に全長を均等に割るってもんじゃ無く、下絵の何処で切ると区切りが良いか?みたいな事まで考えるから難しくなる訳で・・・・。そんなこんなで絵の区切りの良い所まで終わらせようとしているのね・・・
になり、よりフクロウに目が行くようになり、更に少し広めの目地幅をブラウンでカバーした事でクッキリはっきりさせて、よりフクロウが見やすくなった。これを見て棟梁が良いね・・・と言うものの、何か凄く早かった感じがする・・・みたいな表現があって、そう感じる1つには、やはり自宅でパーツ切りしていたって事は大きい。
それに寄って、当日考えながら切るのと、切って来たパーツの是正なら、進むペースは速いし、それと帰り際の宿題パーツの話をしてから帰るって言う事で、考えるって言う事が随分と慣れた気がするのね。創作活動って言うのはアドリブだけでは難しいもので、構想は当日では無く次回までの間にするものなのね。それでも、
例えば正解が出なかったとしても、色々と考えたはずなのね。その時に大事なのは、失敗だと思って消してしまったアイデアがあるはずなのね。そのアイデアが本当に失敗かどうか?検証する事が正解探しなのかも知れないのね。その時にkameyaさんには棟梁もおかみさんもいる訳で・・・自分より上手い人の眼でも検証する。
そうすると、自分の眼で消したものが、使い方次第で良くなったりして・・・考えた事を無駄にしなくて済んだりもする。それが出来るのも考えた事を持っているのと、その場でどうしようかな?・・・では、頭の中で決まってもいないものを仮にみんなに付き合って貰うって言うのは、ちょっとどうかな?って話でしょ?みんなも進めたい
訳だから。けれど、こんな事を考えたらしいんだけれど・・・?って質問なら、ほんの一瞬で各々の意見は出るモノで・・・実はそのいきなりの質問が棟梁やおかみさんにはアドリブの練習になるのね。本来、自分の作品に専念したいものだけれど、その作品ってどう作っている?って言うと、単純に自分の好みで作っていたりする。
でもそれなら自分を磨かないと、ただ切る事、張る事が上手くなるだけなのね。では自分を磨く・・・どう磨く?って言うと、考える・・・って事だと思うのね。つまりこう思う・・・って何かを持って話した時に、全くそう見えなかったり、お門違いな感じになっていたりした場合、切る張るが上手ければ上手い分、お門違いを正確に
作る事になる訳で。つまり2人は自分の作品を進める事も大事だけれど、そうした質問に答える事で、自分なりの意見を言う練習になるのね。そもそも自分の作品は自分の好きなモノだけの中で考えているのね。しかし人の作品についての話は、特に興味の無いものもあったりする。つまり興味をそそらないもの・・・。
そんなお題に向き合うのだから、常に新鮮な意見を求められる。これが好きなモノの時だけ反応しては、いつかその範囲のみになり、狭める。まぁ古典落語と新作落語みたいな話で、常に同じ話をより充実させるのなら、繰り返しは必要だし、常に新しい事を生み出そうとするのなら、常に新しい発想が必要な訳で・・・。
しかもオリジナルをやっているのなら、尚更で・・・新作落語作りになる。その時に自分の好きなモノの中には無かったけれど、意外とそれ使えるかも?と思えたりするものが出るかも知れないのね。それが発見だったりする。常にそこに、感じる・・・って敏感なものを持てるようになると、今、手を止めてでも向き合う時間が、
大事になったりもするのね。しかもその時に質問した人との差があれば、楽に簡単に答えられるが、りょうさん位になると、中々高度な質問になるから、難易度は高く、質問が難しくなればなるほど、勉強になるもので・・・。そんな練習が自分の作品の時に、考える・・・って向き合う練習になるものだったりするのね。
それは俺とて同じで、みんなの質問に答えるって事は、それだけ向き合う回数が増える訳で。そこで勘違いしちゃいけないのは、こうだ・・・と押し付けるのでは無く、こう思うであって、ここも難しいのは、先生として認められればられるほど、先に意見は言わなくなるもので・・・それはその人への影響が強くなるから。
まぁそこまで膨らませる話でも無いのかも知れないから、この辺にするとして、いずれにせよ、こんな話をする作品が完成したのでお疲れ様・・って言いたい所なんだけれど、もう既に新作の絵があって、その是正までやってたのね・・・つまり完成したのに通過点。しかもオリジナルで大作となれば、この作品を大きく超える
作品な予感があるので、楽しみなのね。そんな中、本当のお楽しみ作品も完成。

これは以前、俺がやろうとしていた下地なんだけれど、何か思っていた通りに作ってくれた感じなのね。きっと俺もこんな感じにしていたと思うのね。
では棟梁。これが最初に見せたいのはこれ。

先日作ったプレゼント作品。表札になったんだけれど、こうしてきちんとした字が入ると、見事な表札に・・・格式高くなったし、こんな個性的な表札見た事無い。
何か下地を見事に使いこなしてくれた・・・って感じで見ていて楽しい。2人共に、下地を最大限に生かしてくれた仕上がりなのね。

で大作なんだけれど、りょうさんも新作が花なんで、これを良く見て置く事なのね。棟梁でさえこれしか進まないって事。つまり質を問えば、進む事よりも美しいかどうか?棟梁は下絵に2年も掛かった・・・だから気長にやるつもりで・・・なのね。ではおかみさん。

もう流石に終わらせないと・・・って感じ。後はガラスでクラッシュ。コツは大きいスペースにいかに小さいパーツを入れるか?と小さいスペースにいかに大きいパーツを入れるか?の意識を持って切れるか?なのね。それをここは狭いから入れば良い、ここは広いからドン・・・って感じになると、粗雑感が出ちゃうのね。だから
意識する事が大事で、そうするだけで、終わりも見えるし、丁寧な仕上がりになるはずなのね。後もうちょっとなのね。そんな後は新モンゴル日馬富士学園の額。

例えば上部の図面的なものと、それを切る為にホームセンターでこうやって切って貰う・・・みたいなものなんだけれど、単に全長を均等に割るってもんじゃ無く、下絵の何処で切ると区切りが良いか?みたいな事まで考えるから難しくなる訳で・・・・。そんなこんなで絵の区切りの良い所まで終わらせようとしているのね・・・