katsuまるはだかぁ 芸術家への道

モザイクアート一直線のkatsuの日記

ご新規?さん教室とイースターの下地

2020-02-24 07:37:52 | モザイク教室
今日はご新規さん教室。って言うか、亀有カルチャーの方が初めてのアトリエって話なのね。何しろ初めての方は外の看板から興味を持ってくれて、更に玄関、入るなり殺伐とはしているが、モザイクの山・・・しかも今回はモンゴルの額もあるから賑やかな状況・・・何かそれでもアトリエって感じって喜んで貰えて・・・。

そんな中、カルチャーの続きをやったのね。そんな訳で完成。これが1作目ならそりゃご満足だと思うのね。何か丁度良いって感じなのね。時間もグレードも、これが目安となって、これからこれよりも上手く切れるように・・・となると、これはこれでそう簡単には越えられないし、でも既にデザインは確立しちゃっている感じなのね。

恐らく作りたい模様はいっぱいあるだろうから、後はその模様をきちんと切れる技術が欲しくなる。でも普通はそんなに簡単にデザインが出て来ないもんなんだけれど、既にそれを持っているのだから、ある意味、切る事に専念出来ればかなり近道でもあったりする。そうなると、切る事に慣れるのが大事になる。けれど普通は

じゃコースターでも・・・となり手頃な大きさで手頃な時間で、手頃な枚数を作ると思うのね。その後、大きくして鍋敷きとか、トレイ、ミニテーブル・・・と変化させたりするが、この方はこの模様の先生だから、それに飽きる事は無い訳で。つまりずっと同じ大きさで違う模様で・・・の難しさをクリアー出来る要素が多いのね。

普通はコースターは何枚もいらないし、鍋敷きもそう・・と次々と目先を変えて大きさを大きくする事で、迫力なんて方向に移行するんだけれど、同じ大きさを飾りとして何枚でも問題無かったりするし、そうなると、かなり果てしなく繰り返せる。場合に寄っては、5~8cm程度の下地に模様を変えて100個作ったとするでしょ?

それを1つに合体すればテーブルのトップにもなるみたいな事が出来たりもする。こんな例は棟梁も同じで、木彫が出来るから額縁を自分で作る。自分の特徴を生かすってやり方は、オリジナル作りとして武器になるし、そう言う点では、この模様の違うものを同じ大きさの下地で繰り返すって言うのは、切る事に慣れるにも良い

し、更に言えば、100個作ればそれはそれで大作にもなり得る。ただそれも慌てて先を急げば質を落とす。あくまで今日出来たこれより大きく見劣りしては意味が無いのね。何しろそれは美しいか?を自分に問いかけると、必ず上手くなる。その意識が行動を変えるのだから・・・。まぁこんな事は、カルチャーの領域で語る

事では無いから、そんな事がアトリエ教室との違いかもね。さて、その後は、りょうさんとデイ・サービス分のイースター下地を彫りにコーナンに。

そんな中、さっきの模様の話なんだけれど、色々と模様についてご新規さんと話をしている中、色んなデザインを見たのね。こんな時思うのは、この方と話をしなければ、これらの模様を掘り下げる事は無かった。こんな機会、何故今やって来た?・・・って感じちゃうのね。良くテレビの中で白い天使と黒い天使みたいな話

だったり、デジャブでも良いし、そんな説明の付かないようなファンタジーでも良いし、何しろその類の話と思って貰えれば良いのね。まず一旦この話を置いといて、先日モンゴルの額の全てをもう一回見直すと、3回目の仕上がりに舌打ちした感じになったのね・・・チエッ、良い出来してんじゃん・・・と。正直、1.2回目には

簡単に越えられる自信みたいなものがあった。ただ3回目のは、完成度が高く、正直このままでは越えると言うり痛み分けみたいな事になり兼ねない・・・そんな気すらしたのね。問題は3回目は全面モンゴル一色だった事。それにより、先方にはモンゴルの見慣れたデザインで受け入れやすく、逆に日本の先生には、異国

の文化を味わって貰えて、そのデザインを知らずとも、受け入れるしか無かった感じでもあったと思うのね・・・知らないから。では今回は?となると、今の段階では日本色がバリバリ出ていて、尚且つ相撲色も多い。つまりこの時点では、学長の日馬富士さんと、生徒さんには受け入れて貰える可能性は秘めているが、

相撲と言う分野が何処まで通用するか?となった時、モンゴルと融合させようとすると、いかにここからモンゴル色を巻き返すか?となった時、残りのスペースでは巻き返せない・・・と判断していた最中の、ご新規さんの模様の話・・・俺には神様とか、天使が肩の上で、ねぇ、ヒントは模様なんじゃない?って聞こえるのね。

このタイミング・・・ヒントなんじゃないの?って。でも白いのはそう言うんだけれど、黒いのは、今でも結構迫力あるし、このままで良いじゃん。十分じゃないの?ってラクをさせようとするのね・・・ただ悩むのは手間を掛ければ必ず結果が良くなるのならやれば良い。けれど、必ず何て無いのね・・・。例えば、勉強したら絶対

合格するのなら、みんな合格しちゃうし、練習したらみんな甲子園に行ける?って話で、いくらやってもダメなものはダメだし、レベルを下げるのならクリアー出来たとしても、それで満足か?となった時、作り手ってそっちへ行っちゃうもので・・・崖へ崖へと引き寄せられる。もう金額は決まっているんだよ・・・厳しいよ。

なのにまだ無いのか?これで良いのか?って・・・当然やり過ぎになる。まぁここまではいつも通りなんで、正直どうでも良い話なんだけれど、そもそも1.2回目を軽く越えると判断出来て、3回目の完成度にひるむのは何故か?簡単な理由で、1.2回目は遠慮し過ぎたから。それを3回目では少し自分色を出した・・。ここ。

そもそもアーチストなんて俺が、俺がってとこが少しは一般の人よりもあるべきだと思うのね。何せ提案みたいなどう?って人だから。なのに1.2回目は、なるべく粗相の無いように・・・と色合いも地味に、主張も隠し、シックと言うよりも地味になっている。勿論、それがその後に繋がったのだから、成功だったとも言える。

がしかし、3回目は慣れたし、大学から離れてリセット出来た。つまり額と言う事も大きさもほぼ一緒であるけれど、美術館って言う華やかでもある響きや、格式なんて言う事や、今までとは違う・・・って言う作家としての主張だったり、モンゴルに統一した事で、色んな意味でまとまったと思うのね。この時点でお気付きな方

もいらっしゃるだろうが、つまりさっきのご新規さんのアイデアの話と一緒なのね。つまり大きさは同じでデザインを変えるって意味では。その時に音楽だとしたら、1回目と2回目は、AとA`くらいの違いだったのを、色を付けて、四角くない額にして、かなり変えた・・・つまりAもどきでは無く、BとかCになったと思うのね。

でもその額の幅や色。そして古典的な模様自体がマッチした事で、額は四角いって言う概念から離れても、額の幅みたいな事が大きく逸脱しなかった事で、評価に繋がったとも思うのね。所が今回、もはや額の幅は80cmを超える・・・今までの3倍以上ある。もう単なる額では無い。つまりすっとんきょうなのだ。

人は見た目で判断をする。つまりその時点で大きいとか、思えば迫力を感じるだろうから、見て判りやすいものなら、例えば2mのゾウがいたら、おぉぉぉっとか、わぁぁぁって子供達には言って貰えると思うのね。それは見たままの感想だから。でも、では学校サイドはどうだろうか?この神聖な場所に必要か?になる。そして

お金を出しての出展の先生なら、なんでこんなもんが付いているんだ・・・なんて声も聞こえる。そうね、一体これを誰に向かって作るのかな?って話。今回は今までと違って、遠慮無く思い切り主張しようと思っているのね。そして与えられたスペースいっぱいにね。ただここからが若干そう言ってて違うのは、別に俺が主張

しようとは思ってはいないのね。きっと心ある人はこうなるだろうな・・・と主張したいだけなのね。恐らく、普通はお金を出して出展した先生は、経歴の1つにもなると考えているだろうし、場合に寄っては賞を頂ける方もいらっしゃるだろうし、それによって作品にハクも付くかも知れないし、思惑は色々あると思うのね。

しかし中には、日馬富士さんのファンだったり、相撲のファンだったりして、母国で学校を開いた横綱への思い入れだったりするかも知れない。逆に日馬富士さんは、母国に作ったのだから、モンゴル色で良いのに、日本や相撲など、文化丸ごと受け入れたような学校に思え、志すら感じたりもする。そんな事を踏まえて、

今回は日馬富士さんのお陰で日本色を入れやすくなった。つまり過去3回とは全く違うものになる。しかもかなりの分量を入れてしまった。けど、テーマとしては融合って事なら、カフェオレを作るみたいに、ハーフ&ハーフにならないと。ただ余りにも日本色が濃くなった。これではミルクを垂らしただけ。でも混ぜても、

カフェオレになるだけ・・・そうなると、ラテアートを目指しちゃう。でも味も大事。でも量も大事。何故ならあくまで額だから。こんな事を踏まえて、考えた内容は、横綱として頂点に立つ者は、きっとみんなその道に打ち込んで、勝ち得たものだったりすると思うのね。それはみんなも一緒で学芸会の主役、リレーの選手とか、

学級委員、更に受験、レギュラー、そして恋愛、みんな何らか味わった訳で。そんな最高峰の人は、国を出てまで勝ち得たもの。そう簡単じゃ無いし、想像し切れない努力があったと思うのね。そしてその横綱になっても、土俵入りの時に、太刀持ちと露払いって2人を従えて来るのだけれど、この2人だってそこに立てる実力

はあるのだけれど、本来みんな横綱を目指している訳で・・・そんな上を目指す気持ちと、それを務める役目は、いつか・・・俺もって気持ちの葛藤があると思うのね。つまり、作家の先生方も同じで、そこの位置のままでも、更なる上を目指すのも自分なんだけれど、でも全員誰かに支えられているもので・・・。大抵、応援や

支援を受けて、そこまで来ている訳で。努力だけで、自分一人で・・・と思っている事は思い上がりな気がするのね。恐らく頂点に立った人はそんな事は無い気がするのね・・・だから立派に見える気がするのね。俺はそこを目指しているから、そうだ・・・とは言えないのね・・・。つまりそうやって支えられて、そこに向かってる

・・・そしていつかこの学校から旅立った生徒が、立派になってここの学校卒業です・・・と名乗ってくれた時に、ここにご参加されたり、出展されたり、関わった人達が、やって良かった・・・って思えるような、相当先の未来へのスイッチみたいなものにならないかなぁ?・・・だからすそ野の広く、上は尖ってみたいな、そこに

辿り着けるのはそう簡単じゃない・・・でもその一番上に校章を付けたい・・・そんなイメージなんだけれど、余りに構想がデカ過ぎて、まとめるのが大変なのと、何よりも広げちゃった日本色に負けないモンゴル色の挽回にひたすら構想中・・・。


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