先生と過ごした時を忘れない
溢れる思い出感謝の気持ち
明日は中津市新人戦です。各会場で熱戦が繰り広げられます。暑い夏の練習を乗り越えて、頑張ってきた生徒たちです。今日は、激励会も行われました。苦しい場面のときこそ、まとまりをもって勝負に臨んでもらいたいと思います。明日からの生徒たちの活躍が楽しみです。
話は変わりますが、体育大会にしろ、新人戦でも生徒たちの頑張りを目にすることができます。しかし、寂しい出来事もありました。
それは、最近の新聞で教えていただいた2人の先生の訃報を知ったのです。一人は高校の時の先生。そしてもう一人は、小学校4年生の時の先生です。
Y先生は、高校のときの先生でした。担任ではありませんでしたが、何かにつけて関わりを持ってもらいました。
走ることが好きで50歳になっていて、別府大分マラソン大会などに出場していました。
校内マラソン大会で、「おれより、速かったやつには、宝来軒のラーメンだ。」と宣言。先生より速く走ることはできませんでした。速かった人は、本当にラーメン店行きでした。
朝、早く下宿のところまで走ってやってきて、道路から、
「早くおきんと。朝ぞ。いつまで寝てるんだ。学校たい。」
下宿生がおこされます。
正月は、中津城のお宮から三社参りです。走り終わってから、先生のお宅でお雑煮をごちそうになりました。自宅で数学を教えてもらったりもしました。
先生の家を見ると、懐かしく高校時代が思い出されます。
教員になったときには、先生は退職されていました。チャレンジ精神旺盛で、百人一首を覚えて百人一首大会に参加していました。クラスの子どもたちを大会に引率していったときに、先生にお会いしていました。
「なんでも挑戦たい。」ゆっくりした博多弁の口調は独特で、生徒たちの人気者でした。年賀状のやりとりの中で、
「人生はマラソン」なんて、一言書いてくれていました。いろんな思い出が浮かんできます。
小学校の時のA先生は、絵の指導がとても上手でした。前任校の近くに住んでいたので、ときどき立ち寄っていましたが、「かったかくん、年やけど、働けるときは働かないとなあ。」
小学校の4年生の時の夏の季節の時です。クラスみんなでグランドのはしの川のところに行って、腰掛けていました。
「あのなあ、この大きな木は、夏には葉をしげらせて陰をつくってくれる。冬は、寒いので葉を落として日を当ててくれるんだよ。」
なぜかしら今でも先生のこの言葉が心に残っているのです。先生にも一度そのことを言ったことがあります。もうこの木は学校にはありませんが、先生のあたたかさはしっかりと残っています。
話し方大会で郡代表になったときに、母と一緒に耶馬溪鉄道に乗って先生のお宅まで行きました。そこから県大会の大分のトキワのデパートの会場まで車に乗せて連れて行ってもらいました。
当時は、デパートの4階か5階にホールがありました。
県では入賞は、5人でした。しっかり、とちって入賞はできませんでした。
「残念だったなあ。惜しい、6位だったぞ。」
と先生の言葉。
その時は、単純にしっかりその言葉を信じ切っていましたが、間違いなく心配りの言葉であると今ではそう思っています。先生は、地図をよく使ってくれていました。
先生のおかげで、当時小学校4年生で都道府県名はもちろん、県庁所在地、全国の都市名、鉄道の本線名などすべて覚えていました。
2人の先生がいなくなって、むちゃくちゃ寂しく感じます。先生と出会えたことに・・・そして先生からいただいた優しくあたたかい関わりに感謝しています。
ありがとうございました。安らかにお眠り下さい。
溢れる思い出感謝の気持ち
明日は中津市新人戦です。各会場で熱戦が繰り広げられます。暑い夏の練習を乗り越えて、頑張ってきた生徒たちです。今日は、激励会も行われました。苦しい場面のときこそ、まとまりをもって勝負に臨んでもらいたいと思います。明日からの生徒たちの活躍が楽しみです。
話は変わりますが、体育大会にしろ、新人戦でも生徒たちの頑張りを目にすることができます。しかし、寂しい出来事もありました。
それは、最近の新聞で教えていただいた2人の先生の訃報を知ったのです。一人は高校の時の先生。そしてもう一人は、小学校4年生の時の先生です。
Y先生は、高校のときの先生でした。担任ではありませんでしたが、何かにつけて関わりを持ってもらいました。
走ることが好きで50歳になっていて、別府大分マラソン大会などに出場していました。
校内マラソン大会で、「おれより、速かったやつには、宝来軒のラーメンだ。」と宣言。先生より速く走ることはできませんでした。速かった人は、本当にラーメン店行きでした。
朝、早く下宿のところまで走ってやってきて、道路から、
「早くおきんと。朝ぞ。いつまで寝てるんだ。学校たい。」
下宿生がおこされます。
正月は、中津城のお宮から三社参りです。走り終わってから、先生のお宅でお雑煮をごちそうになりました。自宅で数学を教えてもらったりもしました。
先生の家を見ると、懐かしく高校時代が思い出されます。
教員になったときには、先生は退職されていました。チャレンジ精神旺盛で、百人一首を覚えて百人一首大会に参加していました。クラスの子どもたちを大会に引率していったときに、先生にお会いしていました。
「なんでも挑戦たい。」ゆっくりした博多弁の口調は独特で、生徒たちの人気者でした。年賀状のやりとりの中で、
「人生はマラソン」なんて、一言書いてくれていました。いろんな思い出が浮かんできます。
小学校の時のA先生は、絵の指導がとても上手でした。前任校の近くに住んでいたので、ときどき立ち寄っていましたが、「かったかくん、年やけど、働けるときは働かないとなあ。」
小学校の4年生の時の夏の季節の時です。クラスみんなでグランドのはしの川のところに行って、腰掛けていました。
「あのなあ、この大きな木は、夏には葉をしげらせて陰をつくってくれる。冬は、寒いので葉を落として日を当ててくれるんだよ。」
なぜかしら今でも先生のこの言葉が心に残っているのです。先生にも一度そのことを言ったことがあります。もうこの木は学校にはありませんが、先生のあたたかさはしっかりと残っています。
話し方大会で郡代表になったときに、母と一緒に耶馬溪鉄道に乗って先生のお宅まで行きました。そこから県大会の大分のトキワのデパートの会場まで車に乗せて連れて行ってもらいました。
当時は、デパートの4階か5階にホールがありました。
県では入賞は、5人でした。しっかり、とちって入賞はできませんでした。
「残念だったなあ。惜しい、6位だったぞ。」
と先生の言葉。
その時は、単純にしっかりその言葉を信じ切っていましたが、間違いなく心配りの言葉であると今ではそう思っています。先生は、地図をよく使ってくれていました。
先生のおかげで、当時小学校4年生で都道府県名はもちろん、県庁所在地、全国の都市名、鉄道の本線名などすべて覚えていました。
2人の先生がいなくなって、むちゃくちゃ寂しく感じます。先生と出会えたことに・・・そして先生からいただいた優しくあたたかい関わりに感謝しています。
ありがとうございました。安らかにお眠り下さい。