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川本ちょっとメモ

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岩波現代文庫のフィリピン敗戦体験記 その11 旭兵団約19600のうち戦没約17000

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  ※久田氏、水島氏の経歴は、8月14日『その1』をご覧ください。



<終戦命令~降伏調印 この間の死者は1万2000名以上>
 ――岩波現代文庫『戦争と戦う』p295――

8月15日の「終戦」がルソン島山岳地帯奥深くの久田らに伝えられるまで、多くの時間を要した。各種の記録・手記にも、8月上旬、特に10日前後から米軍の砲撃が少なくなったことが記されている。しかし、まだ「停戦」 の命令はない。

飢餓状態は一層激しくなり、毎日のように餓死者、病死者が出ていた。駿兵団(第103師団)砲兵隊の前田武次郎准尉の残した日記には、「食べル物ハナイカト、誰ノ目モ光ッテ居ル」(八月二〇日付)、「斃レル者ノ全部ガ、食糧不足二依ルモノデアル。此ンナ悲惨ナ光景ガ、此ノ世ノ中二又トアルダロウカ。米ガ欲シイ。塩ガ欲シイ。煙草ガ欲シイ。現地砂糖ガ欲シイ。食べタイ」(八月二七日付)とある(前田『比島飢餓行軍日記』p81、83~84)

方面軍司令部では8月15日の時点で、「終戦」の放送をキャッチしていた。天皇の軍隊は「奉勅命令」がなければ戦闘をやめるわけにはいかないという「原則」に固執して、方面軍(※司令官・山下奉文陸軍大将)は「終戦」の事実を兵隊たちには知らせずに密かに降伏の準備を進めていた。

旭兵団(司令部)が「終戦」 の命令を知ったのは8月23日頃。西山師団長が各部隊長に「終戦」の命令を伝えたのは8月26日である(『ルソン決戦』p529)。久田が「終戦」を知るのもこの頃である。だが、実際に山下大将らが最後の司令部
所在地(3RH)を出発するのが8月31日、降伏文書に調印したのは9月3日。そしてルソン島の日本軍に「終戦」の報がはぼ伝わったのは9月中旬のことだった。

山奥で連絡が遅れるという事情を差し引いたとしても、なぜ降伏調印まで3週間近くもかかったのか。それは、サイゴンの南方軍総司令部が、現地軍の最高指揮官である山下大将に降伏調印の権限を与えるのに時間を要したからである。この期に及んでも、まだ帝国軍隊の形式主義は生きていた。

この1ヵ月近くの間に、「終戦」を待ちつづけてきて命を落とした人や、「終戦」を知らず自決した人、せっかく生きて「終戦」の報に接しながら、医療品や食料のない状態の中で命を落とした人……。8月15日以降の死者は1万2000名以上と言われている。


<死んでいった兵隊や仲間への涙>
 ――岩波現代文庫『戦争と戦う』p298――

水島 各種手記や戦記に出てくる(終戦を知った)その瞬間の描写のパターンは、悔しさのあまり泣き崩れる者、徹底抗戦を叫ぶ者、茫然自失・悲憤の涙……というのが多いのですが、先生が「終戦」の報に接した時は……。

久田 涙が出ました。でも、私は負けたこと自体は全然悲しくなかった。しかし、やめるなら、なぜもっと早くやめなかったのか。それまでに死んでいった仲間や部下のことを考えると、悔しさのあまり涙が出てきたのです。

6月までは誰々が生きていた。その前にやめれば誰と誰が生きていた。1カ月前だったら、高柳も死なんですんだかもしれない……。死んでいった兵隊や仲間のことが、走馬灯のように頭の中に浮かんでは消えた。私の涙は、なんのため今日まで逃げまわってきたのかという疑問と、死んでいった兵隊たちへの涙でした。


<旭兵団の生還者数>
 ――岩波現代文庫『戦争と戦う』p292――

(連隊名) (総人員)(生還)(戦没)(損耗率)
歩兵64連隊  7677名  834名  6843名  89.1%
歩兵71連隊  4728名  994名  3734名  79.0%
歩兵72連隊  5466名  429名  5037名  92.2%
野重12連隊  1738名  331名  1407名  80.6%
  計   19609名 2588名 17021名  86.8%
 ※野戦重砲兵12連隊は厚生省名簿による。

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<飢餓戦線から東京へ 小沼少将の不思議な転属>
 ――岩波現代文庫『戦争と戦う』p283――

水島 末期的な飢饉の戦場での「転属」というのがいま一つピンとこないのです。撃兵団(戦車第2師団)等の戦闘を「果敢に」指導した第14方面参謀副長の小沼少将が、撃兵団が壊滅した後、「陸軍大学校附に転任」の電報(1945年4月7日付)により、東京に呼び戻されます。交通手段が途絶し、補給もまったくない、餓死者が続出している戦場から東京に転任せよというのは、なんとも不思議な気がしました。

「彼の辞書に後退の二字はない。飽くまで強気」と評された小沼少将(『ルソン決戦』p315)。撤退を禁ずるという命令等、撃兵団に厳しい戦闘指導を行い、多くの将兵を死地へと駆り立てた小沼少将。その人が「ほな、さいなら」とばかり、5月下旬、さっさと安全な「内地」に帰ってしまった。撃兵団の兵隊たちはどう思ったでしょうか。


<1945年6月下旬 塩の配給にびっくり>
 ――岩波現代文庫『戦争と戦う』p290――

旭兵団の『歩兵第71連隊史』に、塩について次のような記述がある。「ある時(6月下旬頃と思われる)、〔タケヤクの〕師団経理部から『塩の配給をするから受領にこい』というびっくりする通信があった。

……経理部長立ち会いの下に配分が行われたが『飯盒三ばい』の補給をしてくれた。(飯盒一ばいは約1升の容器である)。……連隊はこの頃600名前後(配属を含む)の生存者であったので、この分配はどれぐらいずつになるか頭の痛い計算をしなければならなかった。帰隊後の各中隊への配給の模様は真剣にして深刻で、あたかもダイヤモンドの配分となったのである」(同書p382)

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  ※久田氏、水島氏の経歴は、8月14日『その1』をご覧ください。


<餓死戦線 山下奉文陸軍大将司令部の食事>
 ――岩波現代文庫『戦争と戦う』p256――

久田 戦後、栗原(第14方面軍参謀)の書いた『運命の山下兵団』を読んだ時、私はびっくりした。戦闘中なのにバギオの司令部では、ウイスキーを飲み、牛肉の缶詰を食べ、「アルコールも酔いがまわり、食卓もデザート・コースに入って、やはり缶詰の果物が出たころ……」などという記述があるでしょう(同書新版p174)

それから、6月中旬にキヤンガンの司令部の食糧部屋が土砂崩れで埋もれた時の記述も驚いた。「樽沢副官が何より困ったのは、缶詰、ウイスキー、米など最後の虎の子の食糧が、すっかり潰れて埋まってしまったことである」(同書p240)

私たちはもうとっくの昔に飢餓状態にあり、芋の根やヘビ、昆虫などを食っていた頃、山下大将の司令部ではウイスキーまであったということでしょう。8月になっても、彼らは「三度の食事は採っていたが、次第に分量は減じてきた」(同書p276)という。

私たちは司令部も自分ら同様、ひどい食事をしているとばっかり思っていたから、体がカーッと熱くなりました。

水島 「食い物の恨みは恐ろしい」ですね。それにしても、栗原参謀が書いたものを読んでいると、前線の壮絶な話とはうってかわって、なにか別世界の話のような感じがしたことを覚えています。

高木俊朗『ルソン戦記』にも、1945年4月に旭兵団の吉原中尉が山下大将の司令部へ連絡に行った時の話が紹介されています(同書p480以下)。吉原中尉はそこで、スペイン風の豪華な邸宅で昼間から幾皿の料理を食べて、ウイスキーをあおっている管理部長に会う。

ベンゲット道で死闘が繰り広げられ、「斬込み」で多くの兵隊が死んでいるまさにその最中である。中尉は腹が立ってきて、「ぶった斬ってやろうか」と思った。食堂で出されたカレーライスを我を忘れて口に運ぶ。しかし、食べ終わり、気持が落ち着くと、カレーの味が苦いものに変わった。「なんという、ばかばかしさだ」。吉原中尉は大声でどなりたかった。

再び司令部に行った時、山下大将の当番兵が顔色を変えて走りまわっている。「閣下の夕食のお膳がかっぱられたのです」。吉原中尉は大声で笑いたかった。日本軍の堕落、崩壊はここまで来た。

4月15日に方面軍司令部はパンパンに移動するが、吉原中尉はそこで、アメリカ風の邸宅の地下倉庫に山積みになっているスコッチ・ウイスキーを見つけた。ウイスキーはドラム缶二本に満たしても、まだ残っていた……。こんな話です。

久田 ひどいね。堕落だね。移動する時というのは命がけなんですよ。いつ砲撃や爆撃を受けるかわからないからね。なのに移動の度に、高級ウイスキーを運ばせていたわけでしょう。

山の中に入ってからもそれがあったということは、徒歩で兵隊たちが担いで行ったはずです。最も必要なのは食糧でしょう。満足に食事もとれない兵隊たちに重いウイスキーを運ばせる神経が憎い。私は栗原の本を読んだ時、もう腹が立って、体が震えました。

旭兵団の高級主計の兒玉實少佐は自分の当番兵に食糧を運ばせて自分だけ食べ、この当番兵を餓死させています。

つまり、高級将校と兵隊とでは、死は平等ではなかった。餓死にも階級による差があったといわざるをえない。

水島 この点を最も劇的に示したのが、メレヨン島のケースでしょう。「メレヨン部隊死没者及び生還者状況表」というのをもとに計算してみると、栄養失調死を含む「戦病死」の率は、将校30.3%に対して、下士官は60.4%、兵に至っては77.6%になる(『戦史叢書・中部太平洋陸軍作戦(2)』p588)。これは、餓死に歴然とした階級差があったことを示しています。


<部下を裏切る上官>

久田 自分の当番兵を餓死させた師団高級主計の兒玉實少佐については前述しましたが、師団長クラスにもそういう人間がいた。旭兵団長(第23師団長)の西山福太郎中将です。彼は、自分の居所近くに兵隊がうろうろすると危険だといって寄せつけず、兵隊たちは師団長の居所を避けて、ぐるりと遠回りして任務を遂行しなければならなかった。“師団長閣下”といえば、兵隊から見れば雲の上の人ですからね。

水島 西山中将はどうして兵隊を近づけなかったのですか。盗みでもするからですか。

久田 そうではなく、米軍はフンドシ一つ干してあっても砲撃目標にする。壕を掘ってその土が外に出ているだけで、そこに徹底的な砲爆撃を加えてくる。“アブ”と呼んでいた観測機がすぐ上から監視しているので、兵隊がウロチョロしているだけで、自分の近くに砲弾が落ちてくる。だから、自分のいる周囲をうろつかないようにと、兵隊を遠ざけたわけです。勝手なもんだね。

水島 まさにエゴイズムが軍服をまとつて歩いているという感じです。撃兵団(戦車第2師団)通信隊(長・菅野六郎少佐)にいた河村一朗氏は、1945年6月中旬ルソン島の山中で、「所持品そのまま全員集合」の命令で点呼や柔軟体操をやらされている間に、隊長らが兵隊の所持品をあさり、米や塩を奪って部下をそのまま置き去りにして逃走した事実を証言しています(『朝日新聞』1986年8月2日付「テーマ談話室・戦争」)

もうこうなると、上官の命令=「朕の命令」は高級将校の私利私欲の手段でしかないですね。

久田 こうした事例は偶然的なものではない。軍隊における官と部下の関係は本質的に民主主義と無縁です。だから、腐敗した高級将校を生む根源は、実は帝国軍隊の構造そのものに根ざしていると思うのです。


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岩波現代文庫のフィリピン敗戦体験記 その8 人肉を食べる飢餓兵

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    ※久田氏、水島氏の経歴は、8月14日『その1』をご覧ください


<人肉を食べる飢餓兵>
 ――岩波現代文庫『戦争と戦う』p258――

水島 極限状態にあった南方各地の戦場では、人肉事件がかなりあったようですね。この種の文献を読むと、鳥肌がたつ思いがします。特に海上挺進基地第七大隊所属の軍医守屋正氏のものが注目されます(守屋『比島捕虜病院の記録』p27~31、同『フィリピン戦線の人間群像』p62~86)

守屋氏は、自分の部隊に「人間の料理人」がいたことを知ってやりきれなくなる。銃弾で即死した死体は、病死した死体よりも彼らにとっては上等で、そのために味方の日本兵を殺して食べている。「ジャパンゲリラ」はジャングル内を徘徊し、日本兵を襲う。彼らは特に脳と肝臓が好物だった。守屋氏は、猿の肉を食べてうまいと思ったので、人肉もうまいというのは科学的根拠があるといいます。「食物はその動物の肉体の消耗を防ぐためのもので、その動物に似た構造の食物ほど有効であり、美味と感じるわけである」と。

クラーク西方ピナツボ山(建武集団地区)海軍第16戦区では、司令以下本部員が味方の兵隊に寝込みを襲われ、きれいに解体されています。一六、七個の飯盒にぎっしりと塩漬けされた人肉が詰まっていたといいます(赤松光夫『太平洋戦争・兄達の戦訓』p173)

人肉を食べている者は血色がよく、ギラギラした限をしていたのですぐわかったそうですね。飢餓状態の中で良質の蛋白質を急にとったからでしょうか。

久田 私はボントックの山岳地帯にいた時に、人肉を食っている連中の話を聞いたことがあります。捕虜収容所でも聞きました。でも私は、フィリピン人やゲリラの死体を食っているとばかり思っていたので、あなたから守屋氏の『比島捕虜病院の記録』を見せてもらって、大変びっくりしたのです。まさか、日本兵が味方の日本兵を殺して食っていたとはね。

実は私も何の肉はわからないものを食べさせられたことがあります。1945年6月下旬頃、大隊本部に追いついて、その夜、副官の和田中尉の当番兵が作ってくれた汁の中に、肉が一、二片入っていたのです。長い間、動物性蛋白質を口にしていなかったのでうれしかった。

灰色がかった肉で、変に柔らかい。それにあまり味もしない。塩がないからだろうくらいに思って、あまり気にしませんでした。当番兵は、「主計殿、今食べた肉は何の肉だと思いますか。それは、さっきそこにいた猫です。そこにもう一匹猫がいますから、取ってこられたら、私が料理して差し上げましょう」という。

それで猫さがしをやった。猫は殺気を感じたのか、一度発見したのですが、さっさと逃げてしまいました。それよりネズミを焼いて食べると美味しいというので、見にいった。ちょうど酒井主計軍曹が捕まえてきて、「主計殿、ネズミをとってきたので食べませんか」と、手につまんでいるネズミをひょいと私に見せた。軍靴で踏み潰されて、目玉が飛び出してぶら下がっている。さすがにこれだけは食う気になりませんでしたね。


<猿は人間の赤ちゃんに見えて食えず>
 ――岩波現代文庫『戦争と戦う』p260――

久田 師団経理部に転属になってから、ある日近くの木の枝に一匹の猿が飛びまわっているのを見つけた。一人の兵隊が小銃を持ってきて発砲すると、一発で命中。猿は木の下に落ちてきた。兵隊たちは「当たった、当たった」と歓声をあげています。しとめた兵隊が猿を引きずってきたので見ると、どこかの動物園で見た猿と同じ顔をしていて、掌は人間の赤ん坊のそれのように可愛らしかったです。食えといわれても、とても食べられませんね、あれは。

水島 守屋氏の当番兵は四国の山猟師で、鉄砲打ちの名人。それで10匹ほどの猿を食べ、おかげで医務室は生存率が高かったそうです。猿の肉の横にカニが添えてあるものを食べ、これを「合戦どんぶり」(猿カニ合戦のこと)と命名したそうです(守屋「ある飢えの体験」『終末から』創刊号p44)

また、捜索16連隊所属の石田徳見習士官は、一緒にいる兵隊を見ているうちに、「彼がうまそうで、しきりに涎が出た。あの頭をたたき割ると、中の脳味噌がうまいだろうなあ……」と、思わず刀の柄に手をかけるところまでいったことを告白しています(石田『ルソンの霧』p161)。私などの想像を絶する世界です。

久田 栄養失調と赤痢でカリガリに痩せ、食べられるものは何でも食べたのに、私は猿だけは食べられなかった。だから、餓死するギリギリの状況の中でも、人肉を食うかどうかは、人によってかなり違うですね。

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岩波現代文庫のフィリピン敗戦体験記 その7 飢餓状態の旭兵団

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<飢餓状態の旭兵団>
 ――岩波現代文庫『戦争と戦う』p253――

久田の所属する旭兵団は、1945年(昭和20年)3月段階で飢餓状態に陥り、ほとんど戦闘力を喪失するに至った。(『ルソン決戦』p309)。『第23師団(旭兵団)隷下部隊行動概要』には、2月下旬から4月下旬の師団司令部の状況についてこうある。

「工兵の数人は某日中食時一箇の飯盒を囲み互に箸を手にして茫然として該飯盒の底を凝視しあるのみ。当時食糧缺亡の為師団長以下将兵は、一般に朝夕の二回とし一椀の粥を畷りあったるものなるも、右工兵の如く力量を要する作業に服しあるものには、一日二椀の粥にては到底作業に従事し得ず。斯くの如くして3月下旬頃に至るや司令部の機能が全く破壊せられんとする様になった。正に於て各部は夫々米軍より糧食を求めんとし、戦力破壊消耗の目的以外に斬込を敢行する様になった」

ここから窺えることは、食い物を求めた「斬込み」までするに至った兵団の末期的状況である。司令部周辺にいる者にしてからが、この状態である。

方面軍の「尚武参電第124号」(3月29日発)によれば、「旭(兵団)ハ敵上陸以来ノ戦闘ニ拠リ人員装備ノ損耗ハ2分ノ1以下二減少シ 而モ『マラリヤ』患者ノ多発殊二給養不良(日量米50瓦こ達セス)ニ因り体力気力ノ衰耗甚シク其ノ戦力ハ3分ノ1以下二低下シアリ」(『ルソン決戦』p354)とある。

この(※1945年)5月下旬から6月にかけて、食糧事情は最悪になりました。私たちがポソロビオ東方丘陵陣地から携帯してきた糎珠はすでに米一粒も残っていませんでした。塩抜きの生活がはじまってからかなりたった。移動途中に運よく、現地人の籾などを発見して、鉄帽や臼などでついて、一週間に一度か、十日に一度食べられるのが精一杯。白米の飯など思いもよらない。ボントック道3キロ以東の山岳地帯に入ってからは、芋畑も容易に発見できず、仮に見つけても、すでに先着の兵隊が掘り起こして食べてしまった跡。残っている芋の根や葉をとってかじりました。

久田 味つけはどうしたかというと、昆虫のバッタか、沢蟹を捕まえて、小さな米粒大の唐辛子と混ぜて「ふりかけ」にして、炊いた粥にかけて食べた。いや、食べるというよりは喉を通したといった方が正確なところです。

動物性蛋白質をとるために、蛙、トカゲ、ヘビ……。何でも食べた。ヘビなどは普通の生活をしている時はギョとするでしょう。ここでは、ヘビを見つけるとみんなよだれを垂らして、目をギラギラさせて、パーツとつかんで食べてしまう。

日本兵が行くところ、ヘビも蛙もみんな食い尽くされてしまい、私たちが後から行ってもなかなか見つけられなくなった。それで、ガメ虫というのを食べた。これは銀色の大きな
カナブンみたいなやつで、これをバリバリ食べた。家の中に飛び込んできたガメ虫を、兵隊たちが奪い合って食べている光景を想像できますか。特に塩分の欠乏は、私たちにとって一番苦痛でした。アルコールや甘味を欲しいという欲求は起こらなかったですが、塩分の欠乏は大変苦しかったのです。

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<敗走中の服装と火種>
 ――岩波現代文庫『戦争と戦う』p244――

久田 「天長節」の日の夕方5時まで、草むらの中で死んだように眠ってしまった。そしてこの日の夕方5時頃、ボントック道を歩き、翌1945年4月30日の午前1時頃にボントック道21キロ地点に着きました。暗闇の中だったのでよくわからなかったのですが、敗走してきた日本軍が相当たくさん集結しているようでした。夜明け前にこの21キロ地点を右折して、私たちはどんどん進んだ。

敗走中の私の服装は、上衣なし、ズボンは膝下がちぎれ半ズボンより短かい。靴は底が抜けたので、皮の拳銃ケースで裏張りをし、拳銃の皮紐でしばったもの。フンドシがないので、衛生三角布です(笑)。戦闘帽は日よけ垂れつき。背嚢と図嚢。図嚢に何を入れていたか記憶にありません。それに天幕(テント)と毛布。兵隊用の飯盒。将校用の飯盒は飯
炊きに適しませんから。それと水筒、拳銃、軍刀、手榴弾1発。これだけです。

この敗走で特に目立ったことは、どの部隊も火種の移動に困っていたこと。火は食べ物を煮たりする等、ジャングルの生活でも必須のものです。マッチなどとっくに使いはたしていたし、レンズで太陽光線を集める方法も雨降りや夜には役立たない。そこで、兵隊たちが火種を移動する方法は、原始的なのですが、シャツなどの布切れを細く裂いて、細長い紐を編んで、首に幾回りにも巻きつけ、その先に火をつけて移動するという方法です。

水島 先生とずっと行動をともにしてきた1等兵の藤城友之氏(愛知県宝飯郡小坂井町在住)に確認してみたところ、この21キロ地点を右折して3キロほど入った、崖崩れになっている所で、各中隊が解散となり、その際に藤城氏は経理室から第2大隊段列に復帰したそうです。そして、藤城氏も歩兵64連隊所属となったそうです。

久田 藤城上等兵と都築軍曹は各自の中隊に戻るため、そこで別れました。経理室は私と酒井軍曹、それに高柳1等兵の3人だけになりました。私たちは大隊本部と別行動をとることにし、壕を掘らずに、茂みの中に枝で小屋掛けをして、その中で起居しました。近くで見つけたドラム缶で風呂をわかして、久しぶりに入浴した。

その頃、大隊は輸送隊になって、糧株を運ぶ任務についていた。野戦重砲兵連隊といっても大砲はなく、ただの歩兵です。銃も満足になかった。大隊は、再び前線の守備任務につくべく移動した。私は方向音痴なので、ここがボントック道を右折して山奥に入ったあたりであることはわかっていたのですが、明確な地点を指摘することはできません。

水島 先生たちは、旭兵団の歩兵64連隊と一緒に、カノーテ山付近にいたようです。連隊本部の神谷重義氏によれば、6月中旬の組織改編で、野戦重砲兵12連隊の残存兵力のほとんどが歩兵部隊の補充として転属し、連隊本部の一部が旭兵団の物資収集隊として、ボコト北方カラオ峡谷で籾取りに従事していたそうです(『成高子会』9号p10)。防衛研究所図書館所蔵の『第23師団将校名簿』(昭和20年8月15日)によれば、先生は最終的には、歩兵64連隊に所属していたことがわかります。


<1945年5月 カヤパ道の惨状――死体、死体、死体>
 ――岩波現代文庫『戦争と戦う』p246――

久田 この道に入って以降、一番悲惨だったのは、バギオ陥落前夜に命からがら脱出してきた傷病兵たちです。彼らは私たちが行く先々にヨボヨボ歩いていました。米軍の観測機が飛んできても、身を隠すだけの体力も気力もなく、そのままゆっくり歩きつづけるか、道端に坐り込んでしまう。だから、すぐ発見され、たちまち砲弾が飛んでくる。飛行機から爆撃される。そうしたことが度々ありました。

だから、私たちは傷病兵に追いつくと、目標になって巻き添えをくらうので、なるべく急いで彼らから離れた。とても彼らを助ける余裕はない。私自身が半病人のような状態でしたから。

水島 バギオ陥落時に動けない傷病兵が悲惨な目に会ったことは伺いましたが、脱出できた兵隊たちも悲惨な状況だったのですね。

久田 ボントック道12キロ地点を右折して山の中に入っていくにつれて、傷病兵は力尽きて行き倒れになっていました。山道のわき水が出ている所には、別々に五、六体の死体がある。

水に頭を突っ込んで、水を飲もうとした格好のまま死んでいる兵隊。川の淵に天幕を敷いて、毛布をかぶったまま死んでいる兵隊。毛布を剥いでみると、すでに白骨化している。岩の上に腰をかけて何事か考える格好をしたまま死んでいる兵隊。なぜ人間はこうも無造作に死ぬのであろうか。本当に自然に死んでいるのです。

道の前方から強烈な異臭がしてくると、この先に死体があることがわかる。しばらく行くと、道路脇に新しく掘った盛り土がある。その横を通るとハエの大群が私たちの顔にプアーツと飛びかかってくる。見ると、黒い手だけが焼けボックリみたいに、盛り土の中からこヨキッと出ている。戦友が埋めてやったが、昨日のスコールの土砂降りで土が流されてこうなったらしい。

さらに進んでいくと、狭い道をさえぎるように横たわっている兵隊の死体はすでに白骨化して、頭蓋骨と胴体とがバラバラになっている。認識票を見てもどこの部隊かわからない。

どの死体にも共通していることは、靴をはいていないことです。傷病兵の靴はあまり破損していないので、ここを通過する兵隊がはいていったのです。

水溜まりに落ちて死んでいる兵隊は、ちょうど石の地蔵のようにふくれあがって、生前の大きさは想像ができないほどになっている。休んでいるのかなと思って、「オイどうした」と肩を叩いたら、バタッと倒れてしまった。ちょうど背中におぶっている背嚢が重しになって、死んでも倒れないで坐ってたままの格好になっていたのですね。

21キロ地点を右折した道(カヤパ道)を敗走していく途中に見た死体の中に、一人として将校の行き倒れはありませんでした。

水島 先生は戦場で悲惨な死に方をたくさん見たと思いますが、ルソンの山中をさまよった作家の江崎誠敦は、『ルソンの谷間』で、「この作品は、人間の死ではなく、人間の死体の物語である。戦場で無数の死体を目撃した私は、人間の終焉に思いをいたすとき、死という概念よりも、死体という物質が先に浮かんでくる」と書いています(同書p275)。江崎のルソン戦場の死体描写は徹底していて、人間の肉体が腐敗して、徐々に滅びていく様を微細に描いています。

久田 私は文学者のように、悲惨な戦場の状況を描写することはできません。4月頃までは戦闘で死んだ兵隊をたくさん見た。肉の切れ端が木にぶらさがったり、腸が出た死体、手や頭が吹き飛んだ死体…。でも、今はそういう戦闘による死ではなく、行き倒れ、朽ち果てて死んでいる。昨日まで家族を思い、語り合った人間が、本当にあっけなく死んでいる。人間の尊厳が完全に消滅した世界です。


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<トリニダット橋の惨状>
 ――岩波現代文庫『戦争と戦う』p230――

久田 1945(昭和20)年4月26日は米軍がバギオを完全に占領した日です。この日、私たちはバギオから10キロ離れたトリニダットの町はずれの林の中にいた。米軍がボントック道を進撃すれば、戦車で1時間とかからない距離です。早くここを脱出しなければならんが、私たちの先にはトリニダット橋があって、そこは4月15日頃に砲撃で破壊され、米軍が昼夜わかたず、5分間隔で、その橋の前後200メートルほどの区間を砲撃しっづけており、そこを通る部隊は必ずといってよいほど被害を受けているという。私はその難所に近づくにつれ、緊張で体が固くなるのが自分でもわかりました。

水島 そのトリニダット橋が破壊される瞬間を目撃した人がいます。日本赤十字救護班(第343班)の看護婦・石引ミチさんです。石引さんは、バギオの第74兵站病院から、1月28日にヴィクウィッチ金鉱の坑内に作った「病室」へ移って看護にあたっていました。そして、金鉱からボントック道90キロ地点に移動中、4月16日夜、このトリニダット橋に差しかかる。

「トリニダットの橋が見えます。たくさんのトラックや馬や、兵隊さんや、人びとがうごめいています。と、突然大爆音とともにトリニダットの橋が爆破されました。トラックのタイヤが舞い上がりました。だれかがしきりに『看護婦さあん』と呼んでいます」

「流れの早い川の中へ工兵隊の裸の肩が並び、丸太棒をつないだ橋が渡されました。……一列になって丸太橋を、おそるおそる渡りはじめました。流れで声が聞こえません。ようやくむこう岸まで渡り終えました」(石引『従軍看護婦!日赤救護班比島敗走記』p95~97)

久田 私がそこを通過するのは、それから10日ほど後ですね。4月26日朝4時頃、一番砲撃が少ないときを見計らって、私たちは出発しました。200メートルほど行ったところに馬が一頭倒れている。私の部隊は馬部隊でしたから、久しぶりに見る馬に懐かしくて近づくと、馬も首だけ持ち上げて、フウフウと白い息を吐いている。よく見ると、腹から腸が1メートル以上も外に出てしまっており、死にきれないでもがいていたのです。私たちの方に一所懸命すりよろうとして、「連れていってくれ」といわんばかりに、悲しい目をして私のことを見る。私も馬が好きでしたから、もう肉親みたいな愛おしさがこみあげてきた。でも、ぐずぐずしていると私たちがやられる。目をつぶってそこを離れました。今でも、その馬の悲しい目を思い出し、なんともいえん気持になることがあります。

トリニダット橋はそこから500メートルくらい行ったところにあった。道路脇にトラックが突っ込んでいて、運転席から黒焦げの兵隊が体半分ぶら下がっている。見ると、道路に死体がゴロゴロしている。

道路の左側の壕の中にも死体がたくさんある。物凄い死体の臭い。橋の下には10台以上のトラックが落ちていました。朝の4時で薄暗く、全体がどうなっているのかわかりませんでしたが、私が見ただけでも数十の死体があった。砲弾でやられた兵隊が一人、道端でうめいている。それに気を取られていると、足もとの死体につまずいた。

私は気がすっかり動転してしまい、一目散に駆け出してしまった。背中の背嚢は上下左右にパタパタ揺れ、腰の軍刀が足にからみつき、図嚢が腰を打つ。軍刀の柄を手でおさえて先端を上げて走った。どう見てもぶざまな格好です。橋と橋の前後200メートルの危険な箇所を一気に駆け抜けました。ホッとする間もなく、砲撃がはじまり、私が走ってきたあたりに着弾している。

トリニダット橋から少し先に行くと、道路脇に1人の兵隊がいる。「何をしているのか」と尋ねると、「あの砲撃されたトラックは海軍のトラックで、たくさんの食糧を積んであるので、砲撃の合間をみて、トラックに近づき食糧を取ってくるのです」という。「どこかの部隊の命令でやっておるのか」と聞くと、「自分は食糧がほしいからやっているのです。砲撃の間隔を調べて知っているから、むしろ敵中に斬込みにいくより安全です」とはっきりいいました。


<動けぬ傷病兵を殺害>
 ――岩波現代文庫『戦争と戦う』p233――

久田 トリニダット橋からしばらく行くと、一人の衛生兵長と一緒になりました。彼は自分がバギオで行った恐ろしい話を、歩きながら私にしてくれました。記憶にあるのは彼の次の言葉です。

「バギオが予定より一日早く陥落したので、野戦病院ではあわてて、病兵のうちで歩ける者は徒歩で脱出させ、歩けない兵隊は静脈注射をして殺害し、それでも間に合わなかったので、病院に火を付けて、病院もろとも焼き殺したのです。中には、何で殺すんか生かして内地へ帰してくれといって泣き叫ぶ兵隊もいました。私は見るに堪えず、逃げ出してきたのです」と。

水島 でも、将校である先生に、兵長が気軽に話しかけてくるというのは不思議ですね。普通、将校だと緊張して、そんなことおよそ話せないと思うんですが。

久田 私が主計であり、しかも軍隊に対して批判的だから、普通の将校に対するのとは違って、安心してしゃべってくれたのかもしれませんね。彼の話を聞いて、いずれ私も日本軍隊によって殺されるのか、と思い、暗い気持になったのを覚えています。

米軍戦史に次のような記述がある。「市の郊外沿いにいる少数の敵のグループがいつもの頑強さで抵抗したが、日本軍の完全な崩壊の証拠はまぎれもなかった。日本軍は、組織など殆どない状態で大急ぎでバギオを去った。補給品や資材の大量の貯蔵が夏の首都に隠されたままだった。日本軍の負傷兵はその病院のベッドの中で彼らの軍医に殺されるか、または看護もつけずに死ぬままに放置されていた」(『米陸軍第33歩兵師団戦史』p225)

別の箇所には、「(米)130歩兵連隊の斥候は、地下の平坦部が敵兵(※日本兵)の死体で一杯に覆われているのを見ることの方がもっと多かった。これらの死体のあるものは降伏よりも死を選んで自決したものだったが、大多数はバギオからの撤退を容易にするために、無情にも(※味方に)虐殺されたものだった。逃走する縦列の足を引っ張らないように、敵(※日本軍)は行動の鈍い(※自軍)傷病兵を殺して竪穴の中に投げこんだのだった」(同書P226)とある。

この傷病兵の殺害が行われたのは、第74兵站病院(病院長・久保隆三中佐)である。





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    ※久田氏、水島氏の経歴は、8月14日『その1』をご覧ください。


<1945年4月下旬>
 ――岩波現代文庫『戦争と戦う』p237――

水島 先生がボントックの山岳地帯に入った四月下旬という時期は、第二次大戦の終幕に近づいている時ですね。4月1日に米軍は沖縄に上陸しており、本土まであと一息というところまで来ている。

「天長節」の翌日(4月30日)にはヒトラーがベルリンの地下壕で自決し、5月8日にドイツは連合国に対し無条件降伏しています。そして5月31日、マッカーサー元帥は、日本本土進攻作戦準備を命令しています(九州進攻作戦=オリンピック作戦と関東進攻作戦=コロネット作戦)。


<「天皇陛下万歳」と言って死んだ者はいなかった>
<死んでいくものは必ず母親か子どもの名を呼んだ>
 ――岩波現代文庫『戦争と戦う』p237――

久田 私は戦場で敵味方無数の人間の死際の叫びを聞いてきました。腕がもげ、足の肉がえぐられ、内臓が露出する。体の血液が次第になくなっていくので、顔色が土色に変わっていく。そういう時、兵隊たちは、自分の最も親しい人の名を呼んで死んでいきました。

多くは「お母さん」であり、女房持ちは子供の名前を呼んだ。私がルソンの戦場で無数の「死」に出会ったが、誰一人「天皇陛下万歳」と言って死んだ兵隊はいなかった。

水島 第16捜索連隊の歩兵小隊長として戦っていた石田徳見習士官(後に東大法卒、農林省審議官)も、「天皇陛下万歳」と叫んだ将兵にはただの一度も出くわさなかったと述べ、こう書いています。

「弾があたると、誰でも、何か一言発するのが常であった。『いてえ!』とか、『やられた!』とか、意味のわかるのもあれば、意味の全くわからない音声もあった。なお余裕のある者は、一番親しい人の名を呼び、一番気がかりなことをいった。その際、父親や妻の名を呼ぶ者は、私の知る限り、一人もいなかった。必ず、母親か子供の名を呼んだ」(石田『ルソンの霧』p82)


<ダイエー創業者と「戦陣訓」「人間廃業」の戦場>
 ――岩波現代文庫『戦争と戦う』p240――

「ダイエー商法」で有名となった株式会社ダイエーの中内功会長も、盟兵団(独立混成第58旅団)の一軍曹として、「ルソン島の山中を、生きた屍のようなからだで、さまよい歩いていた」。中内氏は、六月六日未明の米軍陣地への「斬込み」の際、手榴弾の直撃を受け、大腿部と腕に負傷。

「からだ中に手榴弾の破片を打ち込まれ、傷口にハエがたかり岨虫をわかせながら、山中を逃げていた。食糧はない。食べられそうなものは、何でも口に入れた。アブラ虫、みみず、山蛭、そんなものも食べ尽くすと、靴の皮に雨水を含ませて、噛みしめた。全員が栄養失調になり、マラリアにかかり、山道にうずくまり、一人また一人と死んでいった。夜、隣で話していた者が、朝には冷たくなっていた。……」。

中内氏はいう。「戦陣訓」の「生きて虜囚の辱を受けず」(捕虜になるくらいなら死ね)という一言が、どれだけの重みをもち、どれだけの兵隊を死なせたか、と。そして、自身、「ルソンの山中を幽鬼の如きになりながら、傷に蛆をわかせ、たれ下がった大腿の肉を切り捨て大地を這いつくばっても戦いつづけ、捕虜にはならなかった」。

中内氏は、ルソン島戦場体験の結果、人間は観念だけでは生きられない、飢えていては何もできない、本音で生きたい……。その思いが、その後のスーパーマーケット事業の原点になったという(中内「私の出会った本――『戦陣訓』」『世界』1985年5月号p14~17)。

久田 「戦陣訓」の「生きて虜囚の辱を受けず」のくだりが、どれだけの兵隊の生命を奪ったかわからない。こんな言葉のためにどうして、と思うかもしれませんが、「捕虜になるのは恥だ。潔く死を選べ」という日本人的発想法に逆らうことの方がむしろ困難だった。


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<米軍、マニラ占領>
 ――岩波現代文庫『戦争と戦う』p187――

久田(当時主計少尉)がポソロビオ東方丘陵陣地にいた頃、米軍はマニラめがけて急進していた。クラーク方面を守っていた日本軍約3万は、1945年1月25日から1週間ほどで米軍によって撃破されてしまった。生き残った者はわずか1100名にすぎなかったという。

1945年2月3日、マニラ市内に米軍の一部が進入。以来、突入した米軍とマニラ守備隊との間で激しい市街戦が展開され、多くの市民が巻き添えになり、市内は焦土と化した。司令官・岩淵少将も自決。2月26日に組織的戦闘を終了。米軍は3月3日にマニラを完全占領した(『ルソン決戦』p172~258参照)。

マニラ攻略と並行して、米軍はバターン半島に上陸してこれを制圧。コレヒドール島の日本軍は2月27日までに壊滅した(同書p268~273)。ルソン島の中心であるマニラの占領により、ルソン戦の大勢ははぼ決定されたが、久田のいた北部ルソン地区では、血みどろの戦闘が続いていた。


<退却始まる>
 ――岩波現代文庫『戦争と戦う』p188――

久田の所属した旭兵団野戦重砲兵第12連隊第2大隊の方面でも、迫り来る米軍との間で激しい砲撃戦が展開されていた。

旭兵団正面に展開していたのは、米陸軍第33歩兵師団(特に第36歩兵連隊)である。米軍指揮官たちは、ワシントンの誕生日である2月22日払暁に総攻撃を開始することを決定(『米陸軍第33歩兵師団戦史』p25)、この日、旭兵団の歩兵71連隊陣地のある488高地、その東側丘陵(ラバユグ陣地)方面に猛攻撃を加えている。

水島 陣地はいつ撤退することになったのですか。
久田 2月22日か23日頃だったと思います。

久田の所属する第2大隊の第4中隊第2砲車小隊長の三橋由雄少尉はいう。
「2月20日頃私達中隊に、後方の山に向い夜の間に転進するよう、夕方に命令が来た。何時の日か帰って来るべく見取図を書いて、夜明前に山に入った。山中は敵に発見されないよう夜行軍となった。地形の悪い細い道を歩いた折など途中転落して不明となった者も3名あり、マラリアにかかった兵員も多く、皆疲労していた。第1回の戦闘では負傷者はあったものの戦死者は1名もなかったのに、転進となるや急に落伍者が出て来た」(三橋「緒戦の思い出(1)」『成高子会』2号7頁)

こういう状況の中で、久田の退却行がはじまる。

久田 夜になり、陣地前方の川を渡って少し下ると、そこは米軍が集中砲火を浴びせている地点でした。先へ進むにはどうしてもその場所を通らなければならない。あたりは自動車や大砲が破壊されて散乱し、くすぶっている。死体の腐乱臭がムワッと鼻にきました。

私はマラリアのせいで心身ともに弱っている。でも、そこを無我夢中で走り抜け、山を駆け上がり、谷を越えて、走れるだけ走りました。突然、私の心臓が痛みはじめ、そのまま道端に倒れてしまった。心臓神経症の持病があり、しかもマラリア患者の私が、なぜあんなに走ったのか。走らなければ不安でたまらなかったのです。暗闇の中で弾がどこから飛んでくるかわからないという恐怖が、私を体力の限界まで駆り立てたのだと思います。

しばらくすると、あれだけ激しかった心臓の鼓動がやや治まってきました。夜通し歩いて、夜中に竹薮に囲まれた一軒家にたどり着いた。その後ろの山は、ずーつと杉の木立におおわれていました。私たちはそこの物置で休むことにした。

どんどん退却してくる兵隊たちも、私たちの所で一息入れていくのですが、ある兵隊は、米軍の兵士が日本軍の壕の一つひとつに馬乗りになって、火炎放射器で中の人間を焼き殺すのを目前で見たと話してくれました。

水島 その兵隊はおそらく71連隊の兵隊でしょう。488高地を攻めた米陸軍33師団の戦史は、2月22日の戦闘についてこう書いています。

「恐ろしい弾幕射撃の後に心の落着を回復しようとしても、敵はこのすさまじい殺戮を阻止する如何なることも出来なかった。手榴弾が機関銃座に投げこまれM1小銃が丘の頂きをよろめいて行く日本兵を射ち倒し、火焔放射器が日本軍の洞窟を火を吹く溶鉱炉と化した。文字通りであった。発煙弾が落ちてちょうど30分後に、488高地の上で生きているのは、すごみのある顔をし満足した米兵のみであった。1人の日本兵も生きて高地を逃げるのが見られなかったし、1人の捕虜もなかった」(『米陸軍第33歩兵師団戦史』p27)

久田 とにかくすごい戦闘だったのです。私たちがその物置で休んでいると、外で人の声がする。出てみると、兵隊が四、五人いて、木の下に一人を横たえているのです。聞いてみると、歩兵砲を引いてきたのだが、途中、砲弾の破片で一人が後頭部を削られ、砲を捨ててかついできたそうです。

兵隊はすでに虫の息で、包帯の中から蛆が出てきて、傷口のまわりを動きまわっています。蛆が動くので、その痛みでうめき通しでした。私は物置に入って眠ろうとするのだけれど、うめき声がひどくて眠れない。明け方になってやや静かになったと思ったら、その兵隊は息を引き取っていました。


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   ※久田氏、水島氏の経歴は、8月14日『その1』をご覧ください。


<1945(昭和20)年フィリピン戦当時のルソン島日本軍>
 ――岩波現代文庫『戦争と戦う』p133――

陸軍 南方軍(総司令官・寺内壽一元帥陸軍大将)方面軍約22万人
 └―第14方面軍(司令官・山下奉文陸軍大将)13万人
 │   └―旭兵団(=第23師団)
 │     └―歩兵第64・71・72連隊
 │     └―野砲兵第17連隊――第2大隊(久田主計少尉所属)
 ├―第4航空軍(司令官・富永恭二陸軍中将)約6万人
 └―第3船舶輸送部隊(司令官・稲田正純陸軍少将)約1万人
海軍 南西航空艦隊司令部、第31根拠地航空部隊等 約6万5000人


<軍高級幹部 ルソン島から "逃亡" >
 ――岩波現代文庫『戦争と戦う』p136――

米軍の上陸を前にして、貧弱な日本守備軍の状況に見切りをつけて、軍の高級幹部は続々とルソン島を離れていく。

口実はいろいろつけているが、勝てる戦でないことがはっきりしている以上、高級幹部が自己保身に動くのは、これまでの帝国軍隊の行動パターンからして当然の成り行きであった。

 
<南方軍寺内総司令官 ルソン島からべトナムのサイゴンへ "逃亡" >
 ――岩波現代文庫『戦争と戦う』p136――

まず、1944年11月17日、「レイテ決戦」に見切りをつけた寺内南方軍総司令官はサイゴンへと去る(『レイテ決戦』p471)

第14方面軍の上部組織である南方軍総司令部は、その所在地を幾度か変えている。

まず、1941年の南方作戦の開始とともに、サイゴンに総司令部が置かれるが、1942年7月、シンガポールに「進出」。1944年5月、「捷号作戦」発動を前にしてマニラに「進出」している。マニラ「進出」は、比島(フィリピン)作戦を重視して、最高司令部が前進することによる士気の鼓舞をねらったものであった。

ところが、レイテ作戦が終焉に向かい、やがて総司令部のあるルソン島にも米軍が上陸する日が近づいてくると、さっさとサイゴンに戻ってしまった。これでは、総司令部自ら、「ルソン決戦」 に見切りをつけたといわれても致し方あるまい。

ある新聞記者が「南方総軍の司令部はよく移動しますね」と問うと、南方軍の情報参謀は「総軍司令部は、できるだけ敵襲のない安全な場所で、安んじて三軍を指揮しなければなりません」と平然と答えたという(和田敏明『証言!太平洋戦争-南方特派員ドキュメント』p155)


<第4航空軍富永司令官 ルソン島から台湾へ "逃亡" >
 ―――岩波現代文庫『戦争と戦う』p137―――

富永は、東條英機首相兼陸相のもとで陸軍省人事局長、陸軍次官を長く務め、東條の腰巾着といわれた人物である。東條が失脚すると、最前線に回された。

特攻機を送りだす際には、「最後の一機には予が乗っていく」と訓示していた。山下大将がマニラを放棄して山にこもる作戦を提起した時、「竹槍をもってでも四航軍はマニラでがんばるのだ」と叫んで、最後まで駄々をこねた。(辻本芳雄「富永軍司令官比島脱出の真相」p23)

そして「最後の一機」の「公約」も反故にして、司令部要員も連れずに、九九式襲撃機に乗って台湾に飛び去った。この台湾行きは上級の南方軍総司令部の正式認可を待つことなく準備されていたというから(『戦史叢書・比島捷号陸軍航空作戦』p566)、はじめから認可がおりないことを知っての行動であった。

戦史上、軍司令官たる陸軍中将の敵前逃亡は例を見ない。第4航空軍司令部の暗号手をしていて、富永の台湾行きを記した軍機電報を最初に見た江崎誠致はいう。「その電文を手にしたとき、かっと体が燃えた。卑怯ではないか……」(江崎『ルソンの挽歌』p22)

久田 富永のことについては、当時私たちはまったく知らなかった。戦場において逃げることは、即銃殺を意味した。法的根拠は陸軍刑法75条です。富永は、命令に違反して敵前逃亡したのだから、当然この規定に該当します。

水島 陸軍刑法42条には「司令官逃避1という規定がある。「司令官敵前二於テ其ノ尽スヘキ所ヲ尽サスシテ隊兵ヲ率イ逃避シタルトキハ死刑ニ処ス」と。

久田 軍隊という組織は最終的に死ぬことを要求する組織ですから、勝手に戦争をやめることを絶対に許さなかった。特に敵を前にして逃げることに厳罰を科したのです。逃げれば死刑だぞということで威嚇して戦わせたわけです。

水島 富永は、軍法会議にさえかけられていません。

久田 敵前逃亡を認定するのは上官ですから、その上官が実は先に逃げてきていて、それをごまかすために、後から来た部下を銃殺にしたというケースもあった。

陸軍刑法の諸親定は、上の者には限りなく甘く、もっぱら階級が下の兵士・下士官に厳しく適用されたといってよいでしょう。軍隊組織の「階級性」がよくあらわれていますね。

水島 富永に対する処分はきわめて軽く、予備役編入(1945年5月5日付)だけ。表向きは、病気が重く責任を追及しえないという理由、つまり心神喪失の故に刑事責任能力なしというわけでしょうか。

心神喪失のはずの富永は、すぐに召集され、中国の敦化に駐屯する第119師団の師団長になり、「無事」そこで「終戦」を迎えています。

久田 私は軍隊に対して常に斜めの姿勢をとっていたから、自分の命を大切に思って逃げる人間を非難するつもりはない。だが、多数の部下の生殺与奪の権限を持っている者が自分だけ逃げて、部下を置き去りにして死地に追い込んだのが許せんのです。

水島 富永の場合は、特攻機を342機も送り出した最高責任者ですからね。342機の内訳は、体当たり=148機、自爆=24機、未帰還=170機とされています(大江志乃夫『天皇の軍隊』p586)



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