川本ちょっとメモ

★所感は、「手ざわり生活実感的」に目線を低く心がけています。
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岩波現代文庫のフィリピン敗戦体験記から その1

2013-08-14 23:05:48 | Weblog

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戦争は、平穏な暮らしの対極にあります。
平穏な暮らしを守るために、
戦争は、絶対に避けなければなりません。
戦争の実態を意識して学び、
戦争の臭いに敏感になり、
常に意識して、戦争を遠ざけていなければなりません。
口だけ勇ましく吠える、実際は臆病な人たちを退けなければいけません。
それが、平和を守るということだと思います。


岩波現代文庫『戦争とたたかう――憲法学者・久田栄正のルソン戦体験』(417ページ)という本があります。太平洋戦争のフィリピン戦惨敗体験記です。ここから抜き書きをして紹介いたします。抜き書きは原文そのままの場合と、原文をさわって少し要約して紹介することもあります。

このシリーズの2、9、10、14に、臆病な将軍の実話が紹介されています。

ウィキペディアによりますと、ルソン島 はフィリピン諸島のうちで最も面積の大きな島で、フィリピンの総面積の35%を占めています。首都マニラやフィリピン一人口の多いケソンはこの島にあり、首都圏メトロ・マニラを形成しています。世界で17番目に大きな島で、世界で4番目に人口が多い島です。島の主要部は大体長方形をしていて、最長部で南北の長さがおよそ740km、東西の長さがおよそ225kmあります。マニラ湾やリンガエン湾を代表とする多くの湾があります。

1941年12月末、日本軍はフィリピンのルソン島に侵攻を開始し、占領しました。1944年10月、米軍のフィリピン反攻が始まりました。1945年1月、米軍ルソン島上陸。この本はルソン戦の日本軍惨敗の体験記です。戦争でフィリピンの都市などのインフラは徹底的に破壊されました。沖縄戦で県土戦場の悲劇に会った沖縄県民と同じように、日本軍フィリピン侵攻占領の結果として、フィリピン国民を国土戦場の酷い苦しみに引き込みました。

この本の著者・水島朝穂氏は1953年東京都生まれ、早稲田大学法学部教授です。水島氏の対談相手である久田栄正氏の略年譜の一部を次に紹介します。


<久田栄正氏 略年譜>
1915年(大正 4)年 4月 石川県生まれ
1919年(大正 8)年 5月 北海道北見に移住
1941年(昭和16)年 3月 京都帝国大学法学部卒
          4月 株式会社野村銀行に入社
         11月 結婚
1942年(昭和17)年 5月 小松製作所に転職
          7月 召集令状
1943年(昭和18)年 5月 経理部甲種幹部候補生合格
          11月 在満州・野戦重砲兵第12連隊に転属
1944年(昭和19)年 7月 陸軍主計少尉任官、所属連隊に動員下令
          10月 フィリピン・ルソン島リンガエン湾上陸
             所属第2大隊は旭兵団(第23師団)配属
1945年(昭和20)年 1月 9日 米軍、ルソン島リンガエン湾上陸
             在ポソロビオ東方丘陵陣地、マラリヤ患う
          2月 ナギリアン道イリサンに後退
          4月 死守命令、バギオ陥落、トリニダットを
             経由してボントック道21キロ地点へ
          5月 雨季撤退続く、マラリヤに加えて赤痢併発
             21キロ地点からカヤバ道に入る
          6月 高柳一等兵の死
             旭兵団(第23師団)経理部に転属命令
          8月15日 日本の敗戦、無条件降伏
          9月 ボントック道52キロ地点で武装解除
             ボントック道を死の行進
             カンルバン捕虜収容所で3ヵ月生活
          12月 マニラ港出航
1946年(昭和21)年 1月 浦賀上陸、石川県小松市帰還
          3月 憲法改正案要綱(9条)を見て「とびあが
             るほどの喜び」
1989年(平成元)年 12月 死去(74歳)

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母から聞いた1945年の空襲体験と食料事情と敗戦の日の気持ち

2013-08-13 20:59:49 | Weblog


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母から聞いた1945年の空襲体験と食料事情と敗戦の日の気持ち



わたしの母は幼少時、大阪のJR吹田駅の近くで育ちました。その後小学校時代は父親の結核転地療養のために、大阪・堺市の海べりへ移住し、父親(わたしの祖父)は1934(昭9)年にそこでなくなりました。

母は1945(昭20)年、空襲を2回経験しました。どこで出会ったかは聞きもらしました。いろいろな話を合わせてみると、そのころ住んでいたらしい大阪市福島区、親類が住んでいた兵庫県尼崎市ではないかと思います。

母から聞いた1945年の空襲体験(2回)を簡単に列挙します。

●B29が来たらすぐわかる。その音が聞こえたら、爆弾(焼夷弾)が降ってくる。サァーッとものすごい音がする。

●祖母や、そのころ中学生くらいであった妹と弟と抱き合って伏せていたら、お尻のすぐ後ろで爆弾(焼夷弾と思います)が落ちた。不思議なことに家族はみんな無傷であったのに、ちょっと離れていた人がその爆弾で負傷した。あまりに近すぎて、伏せていた私らを爆風が飛び越えていったのだと思う。

●自分の腕を持って走って逃げている豆腐屋の奥さんを見た。頭から脳みそを垂らして歩いて逃げている人も見た。そういうときは、そんなんを見てもなんともないんや。今やったら卒倒するけどなあ。

●アメリカの戦闘機に追っかけられた。走って逃げて、そして伏せた。バリバリと音がして機銃掃射をされた。戦闘機が行き過ぎて起き上がってみたら、近くで小学生の女の子が撃たれて倒れていた。


1945(昭和20年)の食料事情について――。

母は食べるもの不足に苦しみました。当時、多くの都市住民が同じ苦しみを味わったはずです。ところが、そうでない人たちもいました。戦争体験にも不平等があります。

●母の話――。終戦前後は食べるものが無くて本当に苦しんだ。朝暗いうちに八百屋の前に行って、野菜のくずを拾ったこともあった。けれどもあるところにはあるもので、尼崎の親類の向かいに住んでいた陸軍の偉いさん、たしか少将だったと思うけれど、その留守宅の奥さんがやさしい人で、あるとき立派な魚をくれた。そのころ、そんな立派な魚を食べることなんてできなかった。

●義母の話――。義母は京都・修学院の大きな農家の子です。そのころの修学院は京都市中に近い農村地域でした。その義母は食べ物に苦労したことはないと言っています。空襲体験もありませんし、戦争のために苦しい思いをしたことはありませんでした。

●私が社会人となった会社の社長夫人の話――。社長は20才くらいのころにすでにお金儲けに成功していましたが、召集されて満州に行き、敗戦と共にシベリヤに抑留された後に無事帰還した人です。

あるとき社長夫人に、「留守宅では食べるものに困ったでしょう」と尋ねたところ、「困らなかった」と言いました。お金があったので困らなかったようです。そのころは千葉県に疎開していました。

ずっと後に社長に聞いた話では、お金もほぼ尽きて、「これからどうして生きていこう」と留守宅で思い悩んでいるときに、日本に帰ることができた。戦争で全部失っていたから、必死で物を売った。家族を養わなきゃならんもの、必死だった。シベリヤを経験していたから、ほかとは腹構えが違うよ。社長はそう言っていました。


1945年(昭和20年)8月15日、終戦を聞いて――。

母は言っていました。終戦(私は「敗戦」と呼んでいます)を聞いたとき、ものすごい脱力感と同時に涙が出た。泣いた。そして間をおかずに「終わったんや」というほっとした気持ちでいっぱいになってうれしかった、と。

終わった、やっと終わったと、ほっとした気持ち――安心感につながる気持ちを持ったという話はほかでも聞いたことがあります。希望の無い、耐えるだけの、苦しい生活からの解放は「喜び」であったに違いありません。

1945年夏、皇居前で正座して泣く人の映像を何度も見ています。毎年、この季節に、同じような映像が流され、写真が新聞なんかに掲載されます。

私は母の話を聞いてからは、皇居前で泣いている人が戦争に負けたことを悲しんでいるとは限らないと思うようになりました。「戦争が『終わった』という脱力感と安心感」は多くの人にとって共通の、偽りのない気持ちだったろうと想像します。


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母から聞いた1945年8月7日原爆投下翌日の広島

2013-08-04 03:26:00 | Weblog


8月6日は広島原爆投下の日です。

私の母(故人)は広島原爆投下の翌日に広島へ行ったと言っていました。陸軍の召集兵として広島のどこかに居た夫が無事かどうか、確かめに広島へ行きました。当時、母は満21歳。大阪から広島に入ったのは1945年8月7日か8日ではないかと思いますが、ここでは8月7日とします。

広島駅では列車が横倒しになっていて、中には真っ黒焦げの遺体が重なっていたそうです。それらの遺体は、吊革にぶらさがった姿のままで横倒しになっていました。真っ黒でのっぺらぼうの人形を横に置いたような姿形であったそうです。

母は市内の中心部をあてもなく歩いたようです。「みんななぁ、水、水と言って死んでいくんや。水を飲んだら死ぬんや」。母はそう言っておりました。水をくれという人に何人も出会ったそうです。

それらの人たちはこんな姿をしていたと言っていました。

被爆の火傷のために、腕の皮膚が肩からずり落ちていました。火傷で痛いのでしょう。両脇から腕を少し浮かせるようにしてあるいていました。ずり落ちた腕の皮膚は手・腕のそのままの形を残した姿で手首までずり落ちて、手首で止まっていました。だから両腕ともに、手首の先にもう一つ腕を引きずっているような形で歩いています。

市内の川には死んだ人がいっぱいいたと言っていました。水際に頭をつけた死体がいっぱい並んでいたそうです。水を飲んで死ぬんです。

ある所では、路傍の人から裾をつかまれました。「その子は」と母は言いました。「お姉さん水をください、と言うて裾をつかむんや。そんなん言われても何もでけへん。それを振り放して行ったんや……」。

母はそのとき7か月の身重でした。身重でなくても、そこここに負傷者がいて死体もあっただろう原爆明けの焼野原にあって、遠くから人を探してやってきた、暑い夏の日の若い女性一人にできることはなかったでしょう。

母はそのあと、今の北広島町にある夫の実家に滞在しました。

そこには同じように若い従妹がいて、広島の電話局の交換手をしていて、電話局の建物内で原爆に遭遇したそうです。幸いに無傷で帰郷していました。しかしながら、その従妹は髪を梳くとごっそり抜けるようになり、まもなく死んだということでした。

さきほどNHK・Eテレの深夜番組で、広島原爆で被爆した女優・園井恵子のことを放送していました。この女優は爆心地から700mにある旅館の中で被爆し、外傷はなかったそうです。

放送内容からすれば、8月16日にはまだ元気な普通の体でありました。しかしその後に急に体調が悪くなり、髪が抜け、両腕が内出血でぱんぱんに腫れ、40度の高熱を出して、1945年8月21日に亡くなりました。

母の従妹の状況は、女優・園田恵子さんとそっくり同じものでした。

後年に至って、私の母は「原爆の図」で名高い日本画家・丸木位里さんに出会うことがあり、色紙に母の似顔絵を即興で描いていただきました。その即興画は黒マジックの線画で、母の頭の上に鳩が留まっている似顔絵でした。その鳩は小さな野の花を一輪くわえています。私はこれを母の思い出とともに大切に持っています。

母は趣味で油絵を描いていた晩年、一人で原爆ドームを描きに行きました。私は子どものころから、くりかえしくりかえし原爆の話を聞いていて、母の原爆へのこだわりをよく理解しておりました。しかし、母が死んでから、その一泊旅行に同行しなかったことを後悔しました。

母はどんな想いでたった一人で原爆ドームを描きに行ったのか‥‥。この原爆ドーム画も、丸木位里の即興画と同様に大切に持っています。


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