内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

夏休み日記⑧ 清冽なる古典の泉 『竹取物語』(四) 古代的精神の革命的飛躍

2014-08-11 22:16:00 | 読游摘録

 日本各地に、特に四国に大きな被害をもたらした台風11号が日本海上に抜けて、また暑さが戻ってきた。ただ、まだ台風の余韻か、風もかなり強く、台風以前の暑さとは異なり、湿度はそれほどではなかった。お盆休み中ということもあるのだろうか、今日のプールには親子連れも数組来て、今までで一番の賑わいであった。私はといえば、ただひらすらに泳ぐだけである。今朝は計一時間半泳ぐ。

 今回『竹取物語』について書き始めた初回にすでに引用した新潮古典集成版の野口元大氏による解説は、ほぼ百頁に渡り、いわゆる解説の域を遥かに超えた一個の『竹取物語』論になっており、学ぶところが多い。ただ、いささか大仰な表現がちょっと鼻につく。
 「『竹取物語』の表現方法」と題された章の第二節「伝承的フィクションからフィクションの創造へ」(一〇六-一〇七頁)は、益田勝実氏の論文「説話におけるフィクションとフィクションの物語」(国語と国文学・昭和三十四年四月)の紹介に充てられているのだが、野口氏が言うように、この論文はとても示唆に富んでいる。野口氏によって紹介された益田氏の提言を私なりにアレンジすると以下のようになる。
 説話の言語空間の中で、人間は、日常的現実の可変的な細部から解放され、その現実に埋没していた人間的生の本質をよりよく共有することができる。他方、このような伝承的フィクションは、人間の空想に形式的制限を与え、そのことが時代を超えて、話の内容を受け入れ易くする。しかし、そこにとどまるかぎり、オリジナルな創作性は生まれ得ない。伝承形式を語りの基本構造として受け入れながら、そこから新しく自由に虚構を創造するとき、伝承説話から物語文学への飛躍が起こる。このようなパースペクティヴに立つとき、『竹取物語』には次のような位置づけが与えられるだろう。「事実が作り話化されるのではなく、根っからの作り話が出現し、それによって人間の内なる真実や人間関係における深い真実の追求が可能になる ―― こういう古代的精神の革命的飛躍の証こそ『竹取物語』だったのではないか」(一〇七頁)。