内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

夏休み日記㉒ 『かぐや姫の物語』を観て

2014-08-25 08:07:21 | 雑感

 昨日日曜日、ストラスブールで唯一『かぐや姫の物語』を水・土・日にそれぞれ一回だけ午前十一時から上映している映画館で観た。料金はたったの4€50。上映開始時間二十分前に映画館に着き、座席数八十席の小さな上映室に一番乗り、中央の席に陣取った。開始時間が迫るにつれて、パラパラと客が入ってきたが、観客は私を含めて十二名。幼稚園児とおぼしき可愛らしくもお喋りな女の子をつれた父親、小学校低学年とおぼしき大人しい女の子を連れた母親、二十代と思われるカップルが一組。私の隣の席に老婦人が一人。その他の観客は、私の席のある列の背後の席だったので、上映終了後に席を立つ時に見かけただけだったが、男女それぞれ二人ずつ、皆一人で観に来た人たち、ばらばらに座っていて、年齢も様々。
 映画そのものはどうだったか。アニメーション映画としての映像の革新性、そこから生まれるこれまでのアニメーション映画になかった躍動的な映像美、ストーリーの細部の至るところに込められた一度観ただけでは捉えきれない豊かな意味性、全編を貫くこの世の生命についての問いかけの深さなどに深く感じ入りながら観ることができた。ただ、極めて残念だったことは、フランス語版だったので、主役のかぐや姫を担当した朝倉あきやその他の役を担当した日本の名優たちの声で聞けなかったことである(フランス語版の出来は、吹き替えとしては決して悪くはなかったが)。このことは、この映画が映像作成前にセリフを全部録音するプレスコだっただけに、観ていながらなおのこと欲求不満をつのらせた。一部に関してはアフレコによって置き換えられたとしても、基本的に全編それぞれの役者さんの声に合わせて映像が作られいて、特にそれらの声に合わせて登場人物たちの所作の細部が仕上げられていったからである。オリジナル版だけで十全に実現されているであろうこの声と身体的所作のシンクロニシティを観賞するのは、フランスでは十月二九日予定のDVDの発売まで待たなくてはならない。
 第一回目の鑑賞後の私の最初の感想は以下の通り。
 有限、未完・不完全で、多かれ少なかれ穢れた生き物以外ではあり得ない人間にとって、そこでこそ生きたいと願う〈理想郷〉への最終的回帰は予め禁じられている。しかし、この回帰不可能性を苦痛と悲しみとともに自覚することそのことの現実性の中に〈理想郷〉は永遠にそれとして生きられている。だからこそこの地上の生は限りなく愛おしい。ラストシーンで、月へと帰ってゆくかぐや姫が地上での一切の記憶を失っていこうとしている時、地球を振り返りながら無言の裡に残したのは、このようなメッセージだったのではないだろうか。