内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

集中講義最終日

2014-08-02 23:37:00 | 講義の余白から

 今日が集中講義最終日だった。この酷暑にもかかわらず、四人共最後まで集中力を切らすことなく、よくついてきてくれた。そのことにまず感謝したい。
 昨日今日と読んだ「社会存在の論理」最後の二つの章は、類としての国家とそれに対する個としての個人の自由の問題が一つの大きなテーマとなっているが、そこに宗教と国家の問題も絡み合い、同論文の中でも最も読みにくい箇所である。問題に真正面から立ち向かう田辺の学者としての誠実さと真摯さは認めるとしても、当時の日本の現実の超国家主義の台頭に対する危機意識が決定的に欠落していることは否定しがたく、しかも何ら実践性への通路を持たないその大仰かつ空疎な論述に辟易とせずに最後まで読み通すことは容易ではない。そのような箇所にもかかわらず、課題としての要約と図式的説明をちゃんと提出・発表してくれた学生たちの知的努力は賞賛に値する。そもそも種の論理自体としても徹底性を欠き、論理的にも破綻している論文だが、そのような欠陥を十分理解した上で、それでもなお今日積極的に読むべき理論的価値を持っているかどうかという問いを、学生たち自身がそれぞれ自らの問題意識に引きつけて考えてくれるようになったことは、今日提出してくれた小レポートからも十分に読み取ることができる。
 彼ら学生たちはみな西洋の哲学者をその研究対象としている。そのことは日本の哲学科一般の事情であり、彼らもその例に倣っているに過ぎない。私はそれに反対したいわけでもない。それらの哲学者については大いに学べばいいだろう。ただ、数十年相も変わらぬ日本の大学の一般的習慣に従っているだけでは、何も新しいものは出てこないであろう。現代の最先端の問題を追いかけろというのではない。哲学の基本的な問題を自分の問題としてもう一度考え直して欲しかったのである。そのために彼らが普段学んでいるのとは違った素材を提供したかった。
 では、なぜそれが田辺元のだったのか。それは、日本で日本人として日本語で哲学するとはどういうことなのかを考えてほしかったからである。十五年戦争期の日本を代表する哲学者の一人が、西洋哲学と対決しつつ、時代の課題に応えようと、自らの哲学を構築しようとしたその努力の跡を辿り直し、その中にこれからの時代にも生かせる理論的可能性があるか、またどこで決定的に躓いたかを見極めることは、単なる史的研究に終わるものではない。それを過去の問題としてではなく、自分たちが生きている同時代の問題として考えること、そこから自分たちが今日哲学を学ぶことの意味を考えて欲しかったのである。
 このような私の意図を彼らはよく理解してくれたと、講義を終えた今、確信をもって言うことができることを幸いに思う。

 この講義がフランス学年度で言えば今年度最後の仕事であった。明日からストラスブールでの新学期開始までの一月間がこの夏の私のヴァカンスである。その前半は東京で、後半はフランスで過ごす。新天地でのスタートのための休息・充電期間としたい。