内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

夏休み日記㉗ 素描 ― 無限に多様な生命の顕現の形を捉える技法

2014-08-30 16:46:40 | 哲学

 昨日の記事で話題にしたラヴェッソンの素描論は、一八八二年に刊行された『初等教育学辞典』の « Dessin » の項目に最も詳細かつ深められた仕方で展開されている。この素描論のラヴェッソン哲学にとっての重要性をベルクソンの慧眼は見逃すことはなかった。しかし、ラヴェッソンがレオナルド・ダ・ヴィンチの絵画論の中で特に重きを置く鍵概念 « ligne serpentine » (蛇の動きのようにうねりながら進む線)の解釈については、ラヴェッソンとベルクソンとの乖離は明らかであり、この点でベルクソンはドミニック・ジャニコーによって厳しく批判されている(ジャニコーのラヴェッソン論については六月二十一日の記事を参照されたし)。
 ラヴェッソンにとって「蛇形の線」とは、存在論的な真理の素描であり、それを画家が捉えて描き出す技法は、描かれる対象から偶発的なものを排除し、その対象の本質的なものを見えるものとして引き出し、その物の定義を与えるためのものもである。したがって、その本質的なものは、描かれたものそのものの「背後あるいは彼方」(つまり物体的客体としての素描を超えた目に見えない次元)あるいはその「手前」(つまり描き手の側の目に見えない精神的な次元)にそれ自体として在るのではなく、その素描そのものにおいて現成していると考えられている。
 ところが、ベルクソンにとっては、作品としての素描は、その背後に「単純な思想」(« pensée simple »)を見出すために乗り越えられるべきものでしかない。画家によって捉えられる〈動き〉とは、目に見える線の背後にあり、さらにはその動きの背後に「何かもっと秘められたもの」、「形と色の無限の豊穣さと等価な単純な思想」があり、それを探究するために画家は描くのだとベルクソンは考える。このような解釈を、ジャニコーは「観念論的誤り」として糾弾するのである。
 このようなラヴェッソンとベルクソンのダ・ヴィンチの絵画論を巡っての乖離の理由は、ベルクソンがラヴェッソンの習慣論を不十分にしか評価できなかった理由と同じである。その理由を一言で言えば、ベルクソンはあらゆる物質性の彼方に持続する内的生命をどこまでも探し求めていたのに対して、ラヴェッソンは物質的に多かれ少なかれ限定された無限に多様な形それぞれに生命の顕現の形式を認めていたということである。