内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

夏休み日記㉓ 積極的な無常観から内在論の哲学へ

2014-08-26 11:36:00 | 読游摘録

 一昨日観た『かぐや姫の物語』の余韻に浸りながら、昨日はプールと買い物に出かけた以外は日がな一日『ユリイカ』2013年12月号の特集「高畑勲『かぐや姫の物語』の世界」を読み耽っていた。高畑勲、プロデューサーの西村義明、かぐや姫の声を担当した朝倉あきの三人への三つの独立したインタヴュー(タイトルはそれぞれ「躍動するスケッチを享楽する」「日本一のアニメーション映画監督と過ごした八年間」「無心で演じたかぐや姫」)、アニメの歴史に精通した細馬宏通と奈良美智との対談(「アニメの歴史を変える映画」)、神道史、歴史学、古代文学、日本文学、社会学、比較文学、文芸批評、コミュニケーション論、アニメ評論、画家、美術家など実にさまざまな分野の研究者あるいは実践者たちによる『かぐや姫の物語』を巡るエッセイや小論文からなる読み応えのある特集である。
 私はとりわけ高畑勲へのインタヴューを興味深く読んだ。聞き手であるフランス文学研究者の中条省平の大仰な賞賛と度外れな解釈にはいささか鼻白む思いを禁じ得なかったが、高畑の応答の中には、はっとさせられる発言がいくつもあった。例えば、3・11の東日本大震災に触れている箇所で、日本の庶民が持っている「積極的な無常観」について、高畑は次のように言っている。

大震災でなくても毎年何かしらかなりの災害が起こる。そんな危険なところに住まなきゃいいのにと思うけれど、住んでいられるのはある種の無常観があるからです。何が起こるかわからない。しかし、何があっても生きていきましょうという強さがある。無常というのは絶望ではなくて、強さななんです(74頁)。

 常ならぬこの世を襲い続ける災害に苦しみ、それらをその都度嘆き悲しみつつも、その無常性をそのままに受け入れ、何があっても生きていく。時間を超えた不変の実体に依拠するのでもなく、超越論的自我の牙城に立てこもるのでもなく、この世に揺蕩い、予期せぬ出来事に心身ともに揺すぶられ、それによって必然的に沸き起こる喜怒哀楽とともにこの世の生々流転を生き抜いていくという庶民の強さを高畑は積極的に肯定したいのだろう。
 この「強さ」は、圧倒的な威力で人間に襲いかかる自然の猛々しさを前にして、物理的には「弱さ」でしかないかもしれない。実際、毎年多くの被害と犠牲者が生まれる。しかし、この物理的な「弱さ」をそれとして受け入れる人間の心身の受容性は、「不動にして絶対確実なもの」を措定しそれに依拠して生きることをしないという精神的な「強さ」の情感的基底となりうる。そしてこの基底から、次のような「内在論の哲学」がもつべき真理の概念を精錬し、それを把握する知の実践へ途が開かれると私は考える。

そのような真理の概念は、超越的な客体を根拠とするのでもなく、また超越論的な主体をその基礎とするのでもなく、それら双方を一時的で歴史的なものでしかないものに変換しながら、同時にそれら客体と主体の動的な再編成を要求するそういった歴史的生成を本質とするものであるだろう。そしてそのような真理を把握する知とは、みずから知の限界を知ることで問いを提起すると同時に、その問いを解くことでみずからの知の限界を侵犯し、その限界を引きなおすようなそういった弁証法的で歴史的なものであるだろう(近藤和敬『構造と生成Ⅰ カヴァイエス研究』月曜社、2011年、261頁)。

このような真理を把握しようとする「内在論の哲学」における知とは、普通に想像されるような意味でなにかを計算できることでもなければ、なにかをよく覚えていることでもなく、あるいはなにかをうまく説明できることでもないだろう。むしろそれは、既成の知の安全地帯のそとで問いを立てることができるという力のことだと言わなねばならない。なぜなら問いを立てることができるということは、つまりみずからの無知を自覚するということであり、それゆえにみずからの知の限界をつねに乗り越える潜在性を現在の無知が秘めているということでもあるからだ。したがって、「内在論の哲学」における真理の概念は、知そのものの理解に基づくべき教育の考えかたにも大きな変化をもたらすことになる。「内在論の哲学」における教育とは、同一の結果を生み出すことのできるなにものかを訓育するものではなく、現在の不可能性を問いとして直視することに耐えつつ、それを解決可能な問題へと粘り強くつくりかえていく歴史的ポイエーシスを支え助けるものでなければならない(同書262-263頁)。