内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

夏休み日記㉘ 習慣の両義性 ― ラヴェッソンの自然哲学の根本概念

2014-08-31 16:43:21 | 哲学

 今日で夏休みも終わり。このブログの「夏休み日記」も今日が最終回。
 朝から灰色の雨雲が空を覆い、九時から十時まで屋外のプールで泳いでいる間は降られなかったが、プールの行き帰りには傘が必要なほどの雨に見舞われた。夕方になって雲間から薄日が射す。
 午前十一時からは、先週と同じ映画館の同じ席で『かぐや姫の物語』の二度目の観賞。観客は私も含めてやはり十数名。そのうち小学生以下の子供が四人。先週日曜日はほとんど何の予備知識も持たずに観たが、今日はたくさん「復習と予習」をしてから観たことになる。特に各場面構成の細部に注意して観た。場面ごとの状況に応じて、描線のタッチがかなり変わっていることがよりよくわかった。そのことが全体としてより深い奥行とより豊かなニュアンスを映像に与えているのもわかった。

 昨日の記事でラヴェッソンとベルクソンの決定的な乖離点を問題にしたが、これは単にこの両者の哲学の方向性の違いということに尽きる特殊限定的な問題ではなく、哲学的思考の基本的方向性の違いというより一般的な問題へと深められる。そのような問題深化のための手がかりとなる一節をベルクソンの「ラヴェッソンの生涯と著作」から引用しよう。

Notre expérience interne nous montre dans l’habitude une activité qui a passé, par degrés insensibles, de la conscience à l’inconscience et de la volonté à l’automatisme. N’est-ce pas alors sous cette forme, comme une conscience obscurcie et une volonté endormie, que nous devons nous représenter la nature ? L’habitude nous donne ainsi la vivante démonstration de cette vérité que le mécanisme ne se suffit pas à lui-même : il ne serait, pour ainsi dire, que le résidu fossilisé d’une activité spirituelle (La pensée et le mouvement, op. cit., p. 267).

我等の内的経験の示すところ、習慣とは、意識から無意識へ、意志から自動性へ、知らず識らずに移つて行つた活動性である。ではこの形式の下に、不明瞭になつた意識また眠りに入つた意志として、自然を考ふべきではないか。かくて習慣は我々に、機械性が自足的のものでないといふ真理の生きた証明を與える。機械性は、いはば、精神的活動の化石せる残基に外ならぬであらう(野田又夫訳、ラヴェッソン『習慣論』岩波文庫、94頁)。

 この引用での「化石せる残基」( « résidu fossilisé »)という表現は、ラヴェッソンの習慣概念を裏切る「ベルクソン化」としてしばしば批判の対象になってきた。なぜなら、この表現は、習慣に意識の機械化傾向のみを見ようとするベルクソン固有の思想にはよく対応するが、ラヴェッソンが習慣形成の内に見て取っている積極面を捉え得ていないからである。ラヴェッソンによれば、習慣は単なる機械化への頽落傾向ではなく、自発性の発展に寄与しうるものでもあるのだ。ラヴェッソンにおけるこのような習慣の両義性は、次の一節を読めば明らかであろう。

La loi de l’habitude ne s’explique que par le développment d’une Spontanéité passive et active tout à la fois, et également différente de la Fatalité mécanique, et de la Liberté réflexive (Ravaisson, De l’habitude, PUF, 1999, p. 135).

習慣の法則は、同時に受動的で能動的な、且つ機械的宿命と反省的自由とのいづれとも相異せる自発性、の発展によつてしか説明されないのである(野田訳、45頁)。

 ドミニック・ジャニコーは、Ravaisson et la métaphysique, Vrin, 1997 の中で、ベルクソンとラヴェッソンとの決定的な相違点を次のように規定する

Un résidu fossilisé est une matière morte ; l’habitude au contraire insuffle la vie à l’inerte. […] Bergson refuse à l’habitude les caractères de la vie, alors que l’orientation ravaissonienne est inverse. L’habitude n’est pas seulement une fossilisation du spirituel : elle est spiritualisation de l’inerte (p. 43).

化石せる残基は死せる物質である。習慣は、それどころか、不活性なものに生命を吹き込む。[…]ベルクソンは習慣に生命の有つ諸性格を与えることを拒む。ところが、ラヴェッソン思想の取った方向はその逆なのである。習慣は、単に精神的なものの化石化なのではなく、不活性なものの精神化なのである。

 ラヴェッソンの自然哲学は、本来的にハイブリッドな性格を有した習慣を根本概念とした、物質から精神までをその連続性において包括的に捉えようとする、一つの生命の哲学なのである。