内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

夏休み日記⑫ 清冽なる古典の泉 『竹取物語』(五) 「かぐや姫」の主題による変奏曲

2014-08-15 18:15:51 | 読游摘録

 終戦記念日の今日も朝プールに行ったのだが、開門十時前にすでに数人待っていた。これまでずっと享受してきた一コースにお一人様という贅沢も今日ばかりは到底無理な話で、一コースに多い時は三人一緒になった。それにしても少し間を置けば自分の泳ぎたい速さで泳げる程度である。いつも十時五十分から十分間の休憩に入るのだが、そこでまた人が増えてきたので、それを機に上がる。
 帰宅してからは、夕方集荷に来る空港宅急便に備えて荷造り。明後日の朝羽田発のJAL便でフランスに戻る。いつものようにスーツケース二つに制限重量ギリギリまで本を詰める。それでもせいぜい数十冊であり、実家にまだ数千冊残っている蔵書が並ぶ書棚を前にして、いつも「選抜」に数時間悩む。今回は日本文学関係の本をまとめて購入したこともあり、蔵書からの選抜はなおのこと難航した。九月からの修士の演習の一つで戦争の記憶という問題を扱うことになるので、それに関連する書籍が「晴れの選抜図書」とは相なった。

 日本の古典であれ外国文学であれ、原文で味読するのが正統派というものであろうが、日本の古典を現代日本語訳で読み、外国文学を邦訳で読むのも、いわばもっとも自分に馴染みのある楽器による変奏曲と考えれば、それはそれで楽しめるだろうし、そこに新しい発見もあるだろう。
 『竹取物語』にはいったいいくつの現代語訳があるのか知らないが、学者先生たちによる現代語訳は、他の作品の場合と同様に、概ね原文への忠実さを第一の規準としており、そこに説明的な補足が挿入されるというのが一般的なスタイルである。あくまで原文をより良く味わうための手立てという以上の役割を現代語訳に負わせることはほとんどない。
 しかし、いわゆる忠実な訳というものはひとまず脇に置くとして、変奏曲としての訳ということをもうちょっと自由に考えてみるとどうなるだろう。
『竹取物語』冒頭のかぐや姫発見のシーンはあまりにもよく知られているし、原文自体平易だが、まずその原文を見てみよう。

その竹の中に、もと光る竹なむ一筋ありける。あやしがりて、寄りて見るに、筒の中光りたり。それを見れば、三寸ばかりなる人、いとうつくしうて居たり(角川ソフィア文庫『新版 竹取物語』)。

忠実な現代語訳は、例えば、次のようになる。

その竹の中に、根もとが光る竹が一本あった。不思議に思って、近寄ってよく見ると、竹筒の中が光っている。筒の中を見ると、三寸くらいの人が、たいそう可愛らしい姿ですわっている(同文庫版室伏信助訳)。

 しかし、これだと翁がどうやって竹の中を見ることができたのかわからない。新潮古典集成版の傍訳には、「〔切って〕筒の中を見ると」と補足が加えられている。田辺聖子の現代語訳(岩波現代文庫)でも、「竹を切ってみると」となっている。これくらいの付加ならば、読んでいてもさして気にならないし、普通の理屈の上から言っても、切らなきゃ竹の中など見えるはずがないだろうと、一応は素直に納得できそうなところである。
 ところが、高畑勲と共に『かぐや姫の物語』の脚本を書いた坂口理子のノベライス版(『かぐや姫の物語』角川文庫)を見ると、あッと驚くべき細密な描写になっており、もう原文への忠実さどころかその簡素古拙な味わいも完全に吹き飛んでしまっているが、その描写はなんとも魅力的ではある。私はまだ映画そのものを見ておらず(フランスではまだ上映中なので帰ったらすぐに観に行くつもり)、映像ではどう表現されているのかまだ知らないが、現在放映中の連続テレビ小説『花子とアン』の中のセリフじゃないけれど、これくらい「想像力の翼を広げる」ことができれば、これはもう一つの「『竹取物語』の主題による変奏曲」として愉しめばいいのではないかと思える終戦記念日の今日一日でした。