内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

創作にかかった時間と同じ時間をかけて読む ― 夏休み日記(12)

2015-08-13 12:30:00 | 読游摘録

 ほとんどの場合、読者は、作者がある一つの作品の創作にかけた時間よりもはるかに短い時間でその作品を読んでしまう。著者畢生の大著と言われる作品であっても、集中して読めば数日で読めてしまうだろうし、毎日規則的には読めなくても、暇を見つけて少しずつ読み進めれば、千頁を超える大作でも大抵は数ヶ月で読了できるだろう。面白くて、読み終わってしまうのが残念に思われるような作品でも、だからといって、いつまでも読了を先延ばしすることもめったにないだろう。
 もちろん、忙しくで読書の時間が思うように取れないとか、作品そのものが難解でなかなか先に進めず、結果として一年あるいはもっとかかってようやく読了という場合もあるだろう。
 もう一つの読み方として、作者がその作品の書き始めから完成までにかかったのと同じ時間をあえてかけて読むという読み方があると私は考える。それに値する作品がある。すべての名作・傑作はそうするに値するとも言えるが、それらすべてをそのように読むだけの時間が読者に与えられているわけでもない。すべての作者がそのように自作が読まれることをいつも望んでいるわけでもない。一方、特にそのような読み方を作品そのものが読者に密かに求めてくるような作品がある。
 こう言いながら、私が今特に念頭に置いているのは、リルケの『マルテの手記』である。リルケはこの作品を一九〇四年に起筆し、一九一〇年にようやく完成させている。原書でも、文庫版の邦訳でも、三百頁前後であるから、決して大著ではない。読もうと思えば、二三日で読めるだろう。しかし、このドイツ語の詩的散文の精華の彫琢のためにリルケが経験しなければならなかった孤独な苦悩の時間的重量を無視してこの作品を読むことにはほとんど意味がないと私は思う。
 同作品完成の翌年、もはや何も書けないのではないかという恐怖と戦っていた頃、リルケがドゥイノからルー・アンドレアス・サロメに宛てた一九一一年十二月二十八日付の手紙の一節を引く。

たぶんあの本は、地雷に点火するように書くべきであったろう。書き終わった瞬間にはるか遠くへ跳びのくべきだったろう。しかし、そのためには私は今もあの本に対して愛着を持ちすぎていて、言いようもない貧困を受け入れる決心がないのだ。しかし、それを受け入れることは、私の決定的な仕事であろうとも考える。私は私の持っている資本のすべてをこの見こみのない事に投入してしまった。しかし、その資本の価値は、この損失によってのみ明瞭になる性質のものであった。私はマルテ・ラウリッツを破滅と感じるよりは、むしろ天国のどこか忘れられた遠い場所への不思議な暗い昇天であるように、長いあいだ感じたのをおぼえている。(岩波文庫版訳者解説よりの引用)

 マルテの破滅へと至る受苦が「天国のどこか忘れられた遠い場所への不思議な暗い昇天」をもたらすことを真に理解するためには、作品が完成するまでに要したのと同じ時間をかけて、作者と作品との受苦の時の重みを生き直してみる必要があるのではないかと私は自問する。そのような読書経験は、しかし、けっしてただ苦痛なだけの義務ではなく、一つの具体的な倫理的実践でもあると私は考える。