大都会の住宅街に生まれた者にとって、生まれ育った土地を「故郷」と違和感なく呼ぶことができるのだろうか。
私が生まれる遥か前から近所にあった神社仏閣は、今もそこにある。毎日夕暮れまで遊び呆けていた幼少期を思い出させる思い出の場所や風景も、僅かだが、まだ残っている。幼な馴染みと呼べるような付き合いはもうないが、青年期に一緒に遊び回った友人たちの中にはまだ同じ地域に暮らしている者もいる。それらの友人たちと久しぶりに再会すれば、笑いの絶えない楽しい思い出話に花が咲く。
しかし、「故郷」が「いつでもそこに帰って来ることができる場所」であるとするならば、私にはもはや「故郷」はない。それはほとんど空間的広がりのない点に収縮するかのように遠ざかりつつある。
とはいえ、まったく己の意志とはかかわりなく、人災や天災によって生まれ故郷を破壊され、そこにもはや二度と戻れなくなってしまった本当の故郷喪失者の方たちの過酷な人生に引き比べれば、私は何を失ったわけでもない。
今、午前六時十五分。もうすぐ羽田まで行くタクシーが迎えに来る。
今日、私にとって仕事と思索の場所であるフランスに「帰る」。