昨夏の今頃、フランスへの帰国を直前に控え、実家で母と妹夫婦と夕食を一緒している時のことだった。何がきっかけだったがもう思い出せないが、母が戦争中の思い出を語り始めた。昭和二十年、戦争末期、母は十四歳の女学生だった。東京の代々木の自宅で爆弾がすぐ隣家に落ちた時のこと、疎開先の沼津で、雨のように投下される爆撃の中を家族が散り散りなって逃げた時のことなど、私たちにとって初めて聴く話だった。そしてそれが結果として母から聞いた最後の戦争体験談となった。
世界一の長寿国を誇る日本でさえ、後十年も経てば、戦争について実体験を語れる人は一体どれだけ残っているであろうか。体験の記憶の集成と保存が用意周到かつ長期的に可能な仕方でなされるべきなのは言うまでもないだろう。
しかし、個人の記憶はいずれ遠退き、忘却の淵へと沈む。それはまったく自然なことでさえある。どんなに「生き生きと」あるいは「生々しく」語られた体験でえ、その体験の当事者たちがすべて死に絶えてしまえば、後に残された者たちにできることは、それを間接的に想起することだけである。幸いなことに、進歩し続ける科学技術は、過去の記録の保存・修復・再生のためにも目覚ましい成果を上げつつある。それらが私たちの想起を助けてくれる。
ところが、その想起を不都合だと考える者たちは、記憶を自ら抑圧するか、思い出そうとする者たちに圧力をかけるか、歴史を「修正」したり「否定」したりする。それら歴史の記憶に対する反力は、無邪気で無抵抗な精神を集団的に操作する「教育」という形で現実化されもする。それはいつの時代にもありうる。これからもそれは同じだろう。
記憶を「上手に」想起するためには、だから、ただ思い出すだけでは十分ではなく、記憶を抑圧するそれらの反力に対する自覚的抵抗と想起の方法的・技術的実践(exercice)が不可欠なのだ。これも一つの exercice spirituel であり、したがって、哲学の実践そのものにほかならない。