内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

『ポストフクシマの哲学 原発のない世界のために』― 夏休み日記(13)

2015-08-14 12:30:39 | 哲学

 一昨日、今月20日付で刊行される『ポストフクシマの哲学 原発のない世界のために』(明石書店)を同書の編者代表の東洋大学国際哲学研究センター長の先生から直に頂戴した。
 同センターは、まさに東日本大震災の年、2011年に設立された。以来、「現実の世界を自分たちの経験の場として哲学的思考を鍛え上げ、それを現実の世界へと返すための活動の一環として」(同書「あとがき」283頁)、「ポスト福島」を一つの課題として掲げ、内外の哲学者・哲学研究者たちの発表と現場で実践的に課題に取り組んでいる人たちの報告とを積み重ね、その四年間の活動の成果を纏めたのが同書である。
 まだ収録された諸論文についてコメントできるほど読んではいないが、一人でも多くの人たちに同書が読まれることを願いつつ、その「あとがき」から二箇所引用する。

 哲学的探求は、目の前の社会的状況を来年どのように変えて行くのかという行政的施策に対してはほぼ無力である。「ほぼ無力」と「ほぼ」という限定をつけたのは次の理由による。つまり、積み重ねられてきた哲学的探求は人々の思考の養分になり、その人々が成果を栄養にして具体的な政治・経済的政策を立案するということはある。言い換えるならば、「ほぼ」という留保は、哲学的探求が将来に関わり、そのようにしていまの現実に関わるときには、探求の成果が既に獲得されていなければならないということを示す。哲学的思索のこの間接性は哲学が「いま、ここ」に対処するためには、「いつでも、どこでも」という視点を介することを示している。「いつでも、どこでも」、つまり、一般的に通用する思考を求めるということは、「いま、ここ」という場をいったんは離れることである。もし、この「離れる」という表現が誤解のもとになるとすれば、哲学的思索は「いつでも、どこでも」成り立つ思考を「いま、ここ」に実在する「私」である個人を通して実現すると言い直してもよい。本書で示されていることの一つは、哲学的思索がどのようにして「いま、ここ」へと赴き、そして「いつでも、どこでも」という境地を介して、「いま、ここ」に帰ってくることができるのかということである。(284頁)

哲学を研究する者が実践的な支援者の経験から学びながらどのように「いま、ここ」を越えて、将来に向けてのしっかりした議論を提供できるのか。これが私たちの問いであった。この書物の軸を形成する哲学に携わる人たちの論考が、コラムを書いた人たちの経験と思いをどのように汲み取りえたのか。私たちが目指したところの一つはここにあった。もっと一般的に言えば、実経験から学びながら自らの哲学を先に進め、それを社会に返すということになる。[…]本書の試みは、実践的課題を経験の場としながら哲学研究を行なうという方法の第一歩である。この方法がさらに変更されながら試行されていくことを願う。(285頁)