「楽しい」夏休みも今日で終り。私の今年の「夏休み日記」も今日が最後。ちょっと憂鬱で感傷的な気分である。
上代文学の研究者になりたくて万葉集を懸命に勉強していた遠い昔、万葉集の権威の一人であった指導教授が、或る講義で、「慶びの歌に名歌少なく、悲歌に名歌が多い」と、一言仰られたのを、今もよく覚えている。
人生経験に浅く、何事につけ未熟な当時の私(って、今も大して変わりませんね、情けないことに)は、「そういうものなのだなあ」と、ただ教授の宣われたことをありがたく拝聴するばかりであった。そんな私でも、悪戯に馬齢を重ねて幾星霜、辛い離別も幾度か嘗め、教授のお言葉の意味するところがひどく身に沁みるようにはなった。
寿ぎの歌は儀礼的な場面でのそれが多く、個人的な慶びや喜びをわざわざ歌にすることは少ない。歌にしてみたところで、人の心にあまり触れて来ないし、響かない。それを聞かされた方、読まされた方は、「そりゃ、よござんした」とか、「おめでとうございます」などとしか、挨拶のしようがないではないか。
恋は、本来的に、「会いたい人に会えなくて、独り悲しむ」ことだから、悲しいに決まっている。万葉集に「孤悲」と書いて「こひ」と読ませる歌があるのは、ただの言葉遊びではない。まだ日本人が固有の文字も持たない太古からSNSでのコミュニケーションがグローバルに氾濫する今日まで、どれほどの人たちが恋の悲しみを歌ってきたことだろう。
人はなぜ悲歌に感動するのか。
悲歌を聴くことで、あるいは読むことで、誰もが一つや二つは負った心の傷が癒されるからだろうか。私は、しかし、それは本当の理由ではないと思う。そんなことで癒される傷は、もともと大した傷ではないのだ。時が癒してくれるかも知れないし、何か新しい出会いがあれば忘れてしまう程度の傷なのだ。
悲しみ(哀しみ)はもっと本質的な感情なのだと私は思う。悲しみ(哀しみ)は、喜び(慶び)の単なる反対感情ではない。喜び(慶び)が失われたときに発生する「ネガティヴ」なだけの感情ではない。「ポジティヴ」なアクションによって克服されるべき否定的な心理状態なのでもない。それは人間存在に固有な基底的な実存的感情なのだと私は言いたい。
だからこそ、その感情を見事に言葉にした歌を聴くとき、或は読むとき、私たちは、深く心を動かされるのではないか。
西田幾多郎が哲学の動機を「深い人生の悲哀」としたのも、決して西田固有の個人的経験にのみ由来する特殊な立場からではなく、人間存在にとって本質的な感情に呼応してのことだと私は考える。