内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

荒野に生ふる姫百合のごとくに揺らめく頼りなき身から、無窮の天空の揚雲雀の自由な飛翔へ

2018-01-12 22:01:37 | 詩歌逍遥

 はっきりとある理由があって、あるいは、なんとはなしに、気もそぞろ、ということは、誰にでも多かれ少なかれあることではないでしょうか。最近、そういうことが我が身にしばしばあります。他のことが気になって、目の前の仕事に集中できずに、時間だけが空しく経ってしまう。
 そんなとき、なかば縋るような気持ちで、日本の詩歌の中に心の落ち着きを与えてくれる言葉を探します。そんな言葉がいつも都合よく見つかるわけではありません。それどころか、自分の心の弱さを鋭く突く痛棒のような言葉に出会ってしまうこともあります。それはそれで無益ではないとは言えますが。
 ちょっと季節はずれなのですが、百合に縁ある詩歌を探していて、西行の『山家集』中の歌「雲雀立つ荒野に生ふる姫百合の何につくともなき心かな」から、それを踏まえた芭蕉の次の句に至り着きました。

原中やものにもつかず啼くひばり

 新潮古典集成『芭蕉句集』の通釈は、「果てしなく広い春の野から雲雀が高く高く舞い上がり、すがる物もない無窮の天空で、すべてを離れ切ってただ無心に囀っている」となっています。「雲雀を一切の拘束から離れた存在と把握した点で延宝以来の課題、『荘子』的世界の形象に関する一つの達成ともいえる句」(『芭蕉全句集』角川ソフィア文庫)と見なされています。
 昨日今日と自分の担当科目の学期末試験の監督でした。成績提出締切りが月曜日なので、明日明後日の土日は、文字通り朝から晩まで採点に忙殺されます。今日の午後、自宅で採点を開始したのですが、その間に次々と即答を要する仕事のメールが入ってきて、採点に集中することできませんでした。
 明朝から、上掲句の揚雲雀の自由な飛翔を心に描きつつ、採点を続けることにします。