今朝は六時に起き出して採点作業開始。八時から三〇分、いつもの屋外プールで一泳ぎ。その時点で外気は零下二度。でも、だからこそ、二八度の水温が温泉みたいに暖かく感じられた。帰宅後、少し休憩してから採点作業再開。途中十五分ほどの昼食時間を除いて、午後六時半まで作業継続。終わったぁ~!
来年度からのカリキュラム再編成で、上代文学史はなくなる。だから、これが最後の授業だということもあって、今回はほんとうにやりたいようにやった。中間試験以後の六回の授業をすべて万葉集の注解に充てた。
「万葉集から自分で自由に五つの短歌を選び、読み下し、仏訳、注釈をせよ。注釈では、時代・部立・作者・題詞・左注・作風・技法等を簡潔に説明した後、自分の鑑賞を自由に述べなさい」というのが試験問題。問題はノエルの休み前に与え、試験まで三週間、時間をかけて勉強してきなさい、と言っておいた。
授業では六十首紹介した。そのうち、十数首については特に詳しく注解した。だから、授業中しっかりノートを取っている学生にとっては、その中から五首選べばいとも易しい問題だったはずだ。確かに、その六十首の中から五首選んだ学生が半数以上を占めた。でも、授業での私の説明をそのまま写すだけのような答案を書いた学生はほとんどいなかった。驚いたことに、あえてその六十首の中から選ばずに、自分で万葉集のほかの歌を読み、その中から五首選んだ学生が十名ほどいたことである。
答案の中には、あきらかに適当に流して書いたのもあったのは事実。でもそれは少数。なぜ自分はこの歌を選んだか、その歌のどこに動かされたか、その歌が何を考えさせたか、ノエルの休み中にじっくり考えたうえでの答案が多数を占めた。
それぞれの選択基準が面白かった。優等生的に雑歌・相聞・挽歌それぞれから穏当に選ぶ学生もいたが、相聞歌だけ、問答になっている相聞歌だけ、柿本人麻呂だけ、大伴家持だけ、女流歌人だけ、叙景歌だけ、相聞は苦手だからと雑歌だけ、挽歌だけ、防人歌だけ等々、選択そのものに学生たちの好みがよく出ていた。これはまさにこちらの狙い通りであった。与えられたものをただ飲み込み、吐き出すのではなくて、自分にとって大切なお気に入りを見つけてほしかったからだ。
いい意味で驚いたことの一つは、音韻的効果に言及している学生が数名いたことである。彼らは、一定音の繰り返し、音韻と意味の対比に言及していた。これは実際に自分で声に出して読まなければ気づけないことである。授業中に一人一人音読させたことが功を奏したのだろう。
答案を採点し終えて、すべてとは言わないが、多くの学生たちが万葉集の歌を「主体的に」、しかも楽しんで読んでくれたことがわかって、ほんとうに嬉しかった。
試験のために無理やり暗記し、試験が終われば忘れてしまう、そんな苦役になんの意味があるのか。千何百年も前の異国の歌が自分の心に触れてくる、それはいったいなぜなのか、彼らにはそれを自分のこととして問うてほしかった。たった一首でもいい、万葉の歌が彼らの心に刻まれることを私は願っていた。そして、そこから人にとって普遍的な感情とは何か、考えてほしかった。
私はこの歌が好きです ― そう書いてくれた学生が何人もいた。今、ほぼ確信している。万葉の新たな種子が彼らの心に蒔かれたことを。