内的自己対話-川の畔のささめごと

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「浮き世」の底を流れつづける主客未分の「憂き世」 ― 近世文学史講義第一日目

2018-01-18 12:55:07 | 講義の余白から

 昨日水曜日、後期担当する学部三年生の必修科目「近世文学史」の第一回目の授業を行った。この授業は、ストラスブールに赴任した四年前から担当していて、これで四年連続になる。上代文学史同様、来年度のカリキュラム再編成でこの授業もなくなる。だから、やりたいようにやる。といっても、教科書として採用したテキストの記述は導入として尊重しはする。
 昨日は、初回であったから、型通り、近世文学史の概観を提示した。それでも、説明しながら、教科書の記述に補足説明を付け加えたり、それとは違った観点や見方を紹介したりする箇所が年毎に増えていることに自分で気づく。だから、同じ見開き二頁を読みながら話を進めているのに、年毎に進みが遅くなっている。
 最後の三十分ほどは、来週からの項目別解説のための準備として、「浮世」という言葉の意味について、大野晋編『古典基礎語辞典』(角川学芸出版、2011年、本辞典については、昨年大晦日の記事で取り上げた)の「憂し」と「浮く」の項のコピーを学生たちに手渡して説明した。その説明内容はおよそ以下の通りである。
 まず、「憂し」の項の解説欄を読んでみよう。

ウシは一般に心情を表す言葉と見られているが、本来は状態を表す語で、ある人や事柄に対した際、それが自分の意向どおりに進まないことから陥る困惑や疲労の状態を客観的に示した言葉、さらに出世や恋愛が思うように進まない際に生じる鬱屈した感情も表すようになった。

 次に、同じく「憂し」の項の参考欄の記述を見てみよう。

世の中をウシ(思うようにならない)ととらえるのは、『万葉集』から既に見られ、中古以降の作品、特に和歌に多数の例があり、ウキヨ(憂き世)という言葉が定着した。[中略]
一方で、『菅家文草』や『和漢朗詠集』などの漢詩に「浮生」、『文明本節用集』などに「浮世」といった漢語が見え、「浮生」は人生の定まりのないことの意、「浮世」は定めのない世の中の意である。このような定めのなさをとらえたウク(浮く)の影響で、ウキヨを「浮世」と表記するようにもなっていった。心がはずむの意の「浮き浮き」や「浮き立つ」は中世のころから用例があるが、近世になると「浮世」という表記を「浮き世」ととらえ、浮かれる世の中の意にとり、享楽的な世の中の意にもいった。

 最後に、「浮く」の項の解説欄を読もう。

物が、地表や底から離れて空中や水面に漂う意。類義語ウカブ(浮かぶ)は、ぴったりと水面に付いて沈まずにある意。ウクは不安定な状態をいうので、人事については、身が定まらないこと、不安であること、話が不確かであること、態度が浮ついていることなどをいったが、心のあり方については、中世以降、ウクが浮き立つ意をもつに至り、ウカル(浮かる)に近づき、陽気な状態にある意を表すようになった。

 近世文学を特徴づける言葉の一つとして、この最後の意味での「浮き世」が浮世草子とともに教科書にも出てくる。中世文学を特徴づけていた無常観や厭世思想を表す言葉としての「憂き世」とそれを対比させ、「憂き世」から「浮き世」への移行として中世から近世への変化を説明するのがいわゆる教科書的な概念的説明である。
 さて、ここからは私の文学史観だよと断った上で、以下のような説明を、まずフランス語でしてから、締め括りとして、日本語聴解練習もかねて、同内容を日本語で手短にまとめた。
 浮かれ調子の「浮き世」は、しかし、所詮、表面や中空に漂っている儚き束の間の時空に過ぎない。いつまでも続くものではない。それは江戸時代にかぎられたことではない。そもそも、「浮き世」が「憂き世」に完全にとってかわるということはありえない。浮き浮きした気分の底には、いつも「憂し」という主客未分の状態が底流として人間の在り方を規定しているのだ。それが個々人の意識に「憂し」という心情としてはっきりと上ってくるとはかぎらない。まさにそうであるからこそ、この「憂し」が文学作品としていかに表現されているか、あるいは、言葉としては表されずに底流として潜んでいるかに特に注意することによって、上代ら近世までの日本文学史の「不易」と「流行」とを見通すための一つの視角をひらくことができるだろう。